いのちジャーナル別冊MOOK 1
「脳死」ドナーカード持つべきか持たざるべきか
を「看護学概論」の
課題図書として読んだ、
岐阜大学医療技術短期大学部看護学科
の学生たちのレポート
 

きっと医者の言うとおりにしてしまう
 私は脳死について詳しく勉強する前にドナーカードの存在を知って、興味本位でもらいました。そして、そのカードの持つ意味を深く考えず、どうせ死んで燃やされるくらいなら、他の人の役に立ったほうがいいと思い、「全部提供する」にマルをうって持っていました。
 本を読んでいくと、臓器移植の背景には医者の大きな圧力があると思いました。
 そしてもし私がその場に看護婦としていたなら、どうしていただろうと考えました。きっと、脳死患者やその家族の心の葛藤や迷い、不安などを強く感じながらも医療者側として医者の言うとおりのことをやっていたと思います。 自分の正しいと思ったことができなくて歯がゆい思いをしたり、自分の無力さを痛感するだろうと思います。今までは一般の患者側として脳死について考えていましたが、これからは看護婦として脳死に向き合っていくことが必要だと感じました。


残された人たちの気持ちを考えていなかった
 私は、自動車の免許を取りに教習所へ通っていたとき、受付でドナーカードを見つけました。そのとき、ちょうどいい機会だ、自分も車の免許が取れたらドナーカードを持とうと決心しました。晴れて免許を取得して私は数ヵ月間、免許証と一緒にドナーカードをいつも持ち歩いていました。もちろん、署名もきちんとして。
 家族には初め、どうしてそんなことするの? と反対されました。私は、自分が悩んで出した結論だったけれど母親の涙を見て心が揺れました。私はもし自分が助からないのなら、私の健康な体の一部分がだれかのために役立てるように!と願っていた。看護を学んできて、そういう考えは自然と出てきていた。脳死患者からの臓器提供、そして移植をよいことだというふうに見てきた。高校3年生くらいのときも、臓器移植などにかかわることのできる分野で働きたいなぁと思っていた時期もあった。けれど、その心が揺れた……ということはつまり、親や家族の、残された人たちの気持ちをあまり考えていなかったなぁと思ったからです。
 臓器移植法の成立を待たずに先走った臓器摘出の事実、さまざまな脳死移植の実態を知って、最近ではドナーカードを持つということが少し怖いです。提供する患者の善意や人類への愛情に比べて医療従事者側の心というのはどうなっているんだろう……と悩んでしまう。臓器提供者も患者であるのに、ドナーとして見られる部分が多すぎはしないか。そのために、治療がおろそかになり臓器保存のための作業が重要視されてしまっている。なぜだろう。医療や看護はたとえその人が亡くなりそうでも、命が消えようとしていても、当たり前にその人のためになされる行為ではないか。患者の命はみな等しく重い。比べることなんてできない。
 私は両親と、脳死と臓器移植の話をし、その後このように考えるようになった。
 あくまでも患者を1人の人間として見て、その人がたとえどんな状態であっても、ドナーカードの所持の有無にかかわらず、まずその人のためにできる限りの力を尽くそう。


「反対」の根拠をつかめた
 私は前から脳死について反対の意見を持っていたが、前はただ単に自分が脳死になっても人には臓器を提供したくないと思っていたし、自分が臓器移植をして、免疫抑制剤の副作用などに苦しんでまで生きたいとは思わなかったし、そういう自分のことしか考えていなくて、脳死について反対だった。それに自分は脳死には反対なのにドナーカードは持っている。高校の卒業式にみんなに配られたのだが記入はしていない。やはり記入するのだったら自分は心臓が停止した後と書くだろうけど、記入するのが怖くていつも書くことができない。
 今までずっと迷ってきたけれども、この本を読んで、自分なりの考えができたと思う。この本を読んでいると、怒りと悲しみが込み上がってくる。


家族の思いなんて全然わかってなかった
 ドナーカード1枚のことで、本を読んですごく考えさせられました。私も私の家族も臓器移植の良い面ばかりをテレビや新聞などで見ていたように思いました。その裏には、ドナーとなったかたの家族の思いなんて全然わかっていませんでした。それに今ではコンビニなどいろんなところで手軽にドナーカードが手に入り、どんな人でもドナーとなることができます。私も前までは気楽にドナーカードを持とうかなぁなんて思っていたけれど、この本を読んで少し変わってしまいました。後に残された家族の思いと、ドナーになったらすごく命を軽く思われてしまうのが怖く思いました。
 臓器移植は、1人の人が数人の人の命を助けるかもしれないし、医学の進歩というのもすごく感じるけれど、その数人を助ける前に、1人の人が脳死という状態で亡くなっていることを考えなければならないと思いました。テレビなどでは、移植される側の人ばかりのことを報道して、ドナー側のほうは全然わからない状態でした。ドナー側の人のほうがどのような経過でドナーになったのかとか、本当に家族が望んでいたのかとか、「脳死」になっていたかを調べる必要があるのではないかと思いました。
 本を読んでみると、患者への本当の生きるための治療というのは十分にされていないまま「脳死」とされ、臓器の保存への治療にすぐに切り替ってしまい医療者はそれを家族へは内緒でやっています。それは本当に医療者としての行為なのだろうかとすごく疑問に思います。臓器移植というものがなかったら、全体、本来生きるための治療を一生懸命やるわけだから、医療者が臓器移植を競ってやっているようにしか私は思えません。家族への説明も十分できていないし、家族が混乱している間に臓器を取られ、後で思うと後悔しているといった人が多いです。臓器を提供してよかったなぁと思えるように変わっていかなければいけないと思いました。
 ドナーカードを持っているとわかった瞬間から治療ではなく、臓器保存へ切り替るということがわかったら、すっごくドナーカードを持つのが怖くなりました。そして、これからは、ドナーカードを持っていなかったとしても「脳死」の状態になったら必ず臓器を提供しないといけないような雰囲気になってしまうのが怖く思います。家族も本人も望んでいないのに、脳死の状態でも何日間かは生きられるかもしれないのに、「うん」と言わざるを得ない世の中になってしまったらと思うとすごく怖いと思いました。


高校の授業で渡された
 私は高校生のとき、授業で脳死について話し合ったことがあります。そのときに臓器提供意思表示カードが全員にわたされ、その場では書けなんてことは言われず自分で書きたかったら書きなさいということでした。私は家に帰り1人で眼球以外の臓器すべてにマルをつけた気がします。でもその後、母親に軽い気持ちで「私が脳死になったら臓器提供するよ」と言ったら母親は「いやだ」といったのでやめました。そのときは、どうせ死ぬのなら役に立ってから死にたいと思っていましたが、母親のいやというたった一言で、そうか親はいやなんだとわかり、やめました。今考えるとあんなペラペラな紙で自分の臓器が他の人に使われるなんて少しこわい気がします。現実もよく知らないまま、軽い気持ちでマルをつけたくなる、そんなカードでした。
 実際に臓器移植をされた家族の話を読むと、軽く考えてはいけないことがわかりました。
 病院側はドナーとなることがわかったら治療を放棄すること、家族は混乱の中、決断を迫られること、十分な説明がされないこと、いろんなことが問題となっているのです。なにかおかしいと思います。その人の命を助けるのが一番なはずなのに、臓器を取ることだけを考え、死へと近づけていくのです。なぜそんなに臓器移植に重点をおいているのでしょう。自分がドナーの家族になっても、臓器提供をすんなりするのでしょうか。あるドナーは医者の手によって心停止にされ、肝、腎、角膜、心臓弁、血管、皮膚といったあらゆる臓器が取られ目から血を流した死体となって母の元へ帰りました。そんなことが実際にあるということがとても怖いです。その母は、自分の子どもがそんな体になってくるということを知らなかったそうです。取られてしまってからでは遅い。ただその子どもの姿に呆然とするほかないのです。
 多くの事実を知って、医療にかかわっていくことの怖さを覚えました。いくら医師の指示でも、私も人の命を、家族の悲しみを考えず臓器のために死なせてしまうのか。医療にかかわらなくても脳死になりそうな重症患者に私や家族がなるかもしれない。脳死に関する事実をもっと多くの人が知らなければいけないと思います。カードを手にしたらドナーになるということを十分理解し、家族にもそれを理解してもらわなければいけない。だれかを助けたいと思う前に、家族を泣かせないでほしい。
 私は今ドナーカードを記入しようとは思いません。私の体は私のものです。死んでも私のものでありたい。


カードを持っている人はいい人だと思っていた
 私は、この本を読むまで「脳死」になった患者さんがドナーとなって臓器移植を行うことはとてもよいことだと思っていた。ドナーの臓器はまた別のところで生き続けるし、レシピエントは移植を受けることでより長く生きられる。まさに「いのちのリレー」だ、私もドナーカードにさっそくサインしようと思っていた。「脳死は人の死だ」ということが決まったときも、これで移植によって助かる人が増える、よかったと思っていたし、高知赤十字病院で初めての臓器移植が行われたときも嬉しかったのを覚えている。ドナーカードを持つことが、人として当然のことだと思っていたし、逆にドナーカードを持ちたくないという人のことを冷たい人だと思った。カードを持っている人はいい人だと思っていたかもしれない。医技短の入試のとき、面接で臓器移植について聞かれたときに「私はドナーになって、移植を受けなければ助からない人の力になりたいです」と自信を持って答えた覚えがある。しかしいざドナーカードを手に入れると、なぜかサインをする勇気がでなかった。今までなにも書かれていないドナーカードをただ持っているだけである。
 そんなときにこの本を読んだ。読んでいくうちに、今までの臓器移植に対するイメージが全然真実と違っているということに驚いた。そして医師たちはドナー候補の治療を最後までせず、早い段階から臓器の保存に力を入れているということも知った。ショックだった。それ以前に「救急指定」の看板を上げておきながら、十分に対応できなかったり、医師が不在である病院が多いというのにも腹が立った。これでは病院に行くのが怖くなってしまう。自分が倒れたときに助かるか死ぬかは病院次第、医師次第、運次第なんて絶対間違っている。私たちは医師やマスコミによっていいようにだまされていると思う。このままでは病院側の思うがままにドナーが増えて臓器移植がたくさん行われてしまう。「移植しなければ助からない」と言われてから回復する人がいたり、移植したほうが危険だということもこの本を読むまでは知らなかった。1人1人がこの移植の裏側で行われている許せない行為を知らなければいけないと思う。みんながこの本を読むべきだと思う。
 私はこの本を読んで考えが変わった。ドナーカードを持つのはやめようと思う。ドナーカードを見つけて治療を中止し、臓器保存に切り替えるなんて許せない。私は最後まで命を救ってほしい。これが家族ならなおさらだ。本の中で、脳低体温療法が成功した例が書かれてあったが、このことがもっと世間に広まればドナーカードを持つ人も減ると思う。マスコミは本当にこういう肝心なことを伝えていない。
 患者から信頼されない病院で働くなんて嫌だ。そんな病院に運ばれるのはもっと嫌だ。自分が倒れたときに救急車に乗って「これで助かる」と心から思えるように変わってほしいと本当にそう願う。そして、この本に書かれていたドナーやその家族(被害者)と同じ想いをする人がこれ以上現れないようにと願う。


軽く考えていた自分が情けなくなった
 私は高校生のときずっとドナーカードは持つべきものだと思い、友だちとコンビニでもらってきた。でもいざ記入しようとするとどうしても迷いがでてきてしまい記入できなかった。それは、臓器を提供することで他の人の命が助かるのなら提供したいという気持ちと、自分の臓器が取り出されたり、脳死になるように早められてしまったらどうしようという気持ちがあり、いつも出してはみるものの記入までに至らない。
 去年の夏、免許を取った。これでさらに自分が事故に遭う確率が増え、もしものために書かなければならないとは思ったものの、いまだに私の財布の中でなにも記入されないままドナーカードは入っている。
 この本を読んで、さらにどうしていいものかわからなくなった。私はこんなにも家族の人が身をさかれる思いで自分の家族の臓器提供をしていることを全く知らなかった。多少はつらいと思ってはいたが、他の人が生きることができるのだからいいことをしているからいいじゃないかと思っていると思った。しかし実際は脳死と判定されてはいるものの、体はあたたかくその体にメスを入れられる。そして切り裂かれた患者の体が家族のもとへ戻ってくる。「自分の家族が」と思うとどうしようもなくなる。改めて自分の考えの甘さを思い知らされ、臓器移植はいいことなんだから、もっとするべきではないかと軽く考えていた自分が情けなくなった。患者側の立場は本当に弱いんだなと感じた。
 また外国での臓器売買の実態には驚かされるばかりだった。自分たちの生活のために2つあるうち1つの腎臓を売ってお金にする。そうしないと生きていけない状態におかれている人々。列をなしている写真を見たときは考えさせられるものがあった。これからもっと臓器移植が広がることで、こういうことも多くなってゆくだろう。
 治療法が移植しかないとしたらきっと移植することを選ぶ。しかし、ドナー側の家族になったら移植を拒否するかもしれない。人間というのはこういうものだろうか。この問題は永遠に考えていかなければならないだろう。


消防署で聞いた、怖い話
 本を読んで怖いと思ったのは、救急病院の体制の悪さです。自分になにかあったとき助けを求めるのは救急車だと思います。救急車を呼んでから救急車が病院に着くまで6分かかると消防署で聞きました。「平均6分だったら助かりそうだな」ってちょっと安心していたのに、現場に救急車が着いて、乗り込むことができても実際に病院につくのは……。本当にショックでした。遅くなればなるほど助かる確率は低くなっていくのに……。自分や自分の親しい人、大切な人がこんなことになったらと考えたら本当につらくなってしまいました。
 しかもこれは消防署で聞いた話によると、今救急車の中に救命救急士が乗れるようになって医者の指示のもと電気ショックなどの医療行為ができるようになったと聞きました。でもまだその資格を持っている人が少ないので、その人が休みのときは資格を持っている人がいなくて医療行為ができないらしいのです。
「もしかしたらその人が乗ってたら助かったかもしれないなぁ」と署員さんが言っておられました。
「なんかそんなのすごく悲しい」と私が言ったら「それはもう運ですね。申し訳ないけどしかたないんです。」と言われました。なんだか本当に運まかせといった感じの救急体制が怖くなりました。医療の中で救急は力を入れてやっていかないといけない分野だと思います。しかも途中で投げ出してしまったり、脳死と決めつけて治療をしなかったりといったことは絶対あってはならないと思いました。


あたたかい姉が切りきざまれるのがどうしても許せない
 私は特に家族の話に心が動かされた。私は自分の家族がまだあたたかくて心臓も動いているのに、死んだことは理解できないだろうと思う。私の姉はドナーカードを持っている。しかし親のサインはまだである。看護婦である私の母も反対している。
 今回私が思ったのは、ドナーカードを持つということは軽いことではないということ。また、これはその人1人だけの問題ではないということである。むしろ本人よりも家族にとって一番重大なことになる。だからたとえ自分が臓器移植を理解し、ドナーカードを持っていたとしても、家族と必ず話し合うべきだと思う。臓器移植は自分が死んでしまった後に行われることなのだから。私はもちろん姉がドナーになることには反対である。それは、臓器移植そのものを拒否するわけではない。ただあたたかい姉が切りきざまれるのがどうしても許せないのである。しかし姉はあまり話し合おうとはしない。自分が決めたことなのだからだと。しかし、私はしっかり話し合いたい。それは自分のためにでもある。
 まだまだドナーカードについての理解がなされていないと思う。コンビニで簡単に手に入るドナーカードは無知である人々を臓器提供者として誘っているように思う。提供を待つ側の気持ちもわかるが、死んでいく人々の生命の質を無視してまで臓器移植はされなければいけないのだろうか。


軽はずみな気持ちでサインしていた自分がとてもこわい
 この本を読んで初めて知ったこと、考えさせられたことがたくさんあった。私は去年の6月から臓器提供意思表示カードを持つようになった。脳死になって意識がなくて回復する見込みがないのなら機械に管理され、生きのびるなんてとてもじゃないが耐えられないと思い、「どうせ死んだも同然、痛みも苦しさもないのなら、使えるものは使ってくれ。」という気持ちでカードにサインした。
 今思えば、こんな軽はずみな気持ちでサインしていた自分がとてもこわい。臓器提供を希望する本人は亡くなって、残された家族が手続きをすることになるのだけれど、大切な家族の一員を突然失って、それだけでもつらい家族に、おいうちをかけるように臓器提供への決定を下させるのはあまりにも過酷だと思った。だから、このカードを持つことについては、自分がもし脳死になったらということを家族とじっくり話しておく機会を持っておくことが大切だと思った。
 事故や病気などで脳死となり、ドナーとなり得るまでには、すべての病院において「生かせるための完璧な治療」を受け、家族にも十分な説明が与えられてなされていると思っていた。しかし、日本のおそまつな救急医療体制やまだ治療しなければならない患者に対し、先の移植のことだけを考え、臓器の維持、観察を重点的に行っている病院のことなどをこの本で知った。まず移植がどうのこうのよりも、ドナーとなり得る人への最善の治療を行うことが大切だと思う。
 もし呼吸停止になった場合、2分後に人工呼吸を開始すれば救命率は90%、5分後なら25%に落ち込むと言われている。アメリカでは早くから高校教育の中に応急処置の学習を取り入れて、まず家族が、傍らにいる者が応急手当を行うという流れができている。市民、救急車、病院と命のリレーが行われている。日本では、そんなことはほとんどなく救急隊が到着するまでなにもせず呆然と立っているだけである。その上、運ばれる先はというと、名ばかりの中身の伴わない救急病院だということを知って、どうしてこんな病院が「救急病院」などと呼ばれ、存在していられるのか信じられなかった。
 本には、救急病院と言われる医療機関には、救急告示医療機関と救命救急センターがあり、単に医療機関からの申し出をそのまま都道府県が受け入れ、県民に「告示している」だけのものが救急指定のほとんどの看板をかかげているとある。そして、そんな病院の当直では、経験の浅い医師がアルバイトとして患者をみるため、助かるはずの患者を異常の発見ができないで死なせている例がいつくもあることを知った。
 私は、人の命をあずかる機関の中身、質をチェックしていく水準を設けたり、行政がそれを管理していったりする必要があると感じた。
 臓器の提供は「自己決定」と言われるけれど、現実の場で実際に選択を迫られて、決定させられるのは家族なんだと改めて感じさせられた。本中には、娘が入院早々ドナー候補として見られて積極的に死をすすめられた女性の話が載っていた。私はこれを読んで「ドナーカード」を持っていたら今までその人がどうやって生きてきたか、どんな家族がいるのかなど全く関係なく、ただのドナーとしてしか見られなくなってしまうのか、ただのものとしての扱いしか受けられないようになるのかと思った。
 「移植」だけを見るがあまり、人間の尊厳も考えないで死にゆく人を、モノ扱いするなんてことは絶対にあってはならないこと。それなのにあってはならないことが実際数多く行われている。私はこの本を読んでドナーカードを持つことをやめようと思った。今までは頭で「脳死」というものをわかったつもりでいたし、臓器移植について「人助け」としか思っていなかった。けれど自分の思っていた「臓器移植」と現実との間にあまりにも大きなギャップがあることがわかった。


なんで提供しないんだろうと思ってしまう自分が恥ずかしい
 私は今まで、自分が死ぬなら別に他の人のためになるんだし、提供してもいいという考えでした。しかしこの考え方は、自分自身が第三者になっていて、なにも知らなかったのだと恥ずかしくも思えました。私自身が死んだ後に、残る人の苦しみを考えると、とても臓器提供に協力できる気にはなれませんでした。反対に、自分の大切な人が脳死だとされたとき、私自身が臓器提供を承諾するかと言えば、そうではないことに気づきました。深く考えてみると、その人は意識はなくても生物的には生きているという状態で、そんな状態を私が見ていたらひょっとしたら助かるかも、助からなくてもその人の最後をあせらずに見届けてあげようと思ってしまいます。自分とは全く関係のない人となると、なんで提供しないんだろうと思ってしまう自分が恥ずかしくなります。
 去年、マスコミが臓器移植について大変騒いでいたことは今でも覚えています。お父さんに、知る部分が間違っていると言われて、その時はピンとこなかったけれども今はよくわかりました。あの報道は、死を期待する報道だったということをです。今やドナーカードを持つことにも一種のはやりみたいなものがあって、私もそれにのせられていたのでとても悲しいです。本当のことがなにも知らされてないし、知ろうともしていないことが一番の悪い原因だと思います。


いかに脳死移植について知らなかったのかがわかった
 今まで私は、脳死になったらそのうち死んでしまうのだから、移植を待ってる人に自分の臓器を提供してもいいと思っていました。だから夏ごろ、コンビニでドナーカードが置いてあるのを見つけたとき、1枚持って帰ってきました。しかし、実際に記入しようとするとためらってしまって、結局未記入のまま机の中にしまったままになってしまいました。今回この本を読んでみて、今まで私は脳死移植の明るい面だけしか見ておらず、いかに脳死移植について知らなかったのかがわかりました。
 一番驚いたのは、脳死が確定していないときからドナー候補として早々と治療を打ち切られ、臓器保存術に切り替えるようにするのが当たり前のようになりつつあるということです。そうすることにより、脳死になるまでの時間が早められているなんて全く知りませんでした。脳低体温療法などのすべての救命治療をやってもだめだったときにドナーにしていては臓器は使えない状態になってしまっているからといい、脳死を早く作ろうとする動きには恐ろしさを感じました。
 また、臓器移植法ができたにもかかわらず、あまり効果がないように思えました。脳死判定で脳がすべてだめかどうかは判定できないと言われているのに、この脳死判定さえも古川市立病院の事例のように、いいかげんになされている場合が多く、実際には脳死でない人が脳死にさせられるのであり、このようなことがごく最近何件も起きているのだから、私たちには関係ないなどとは言ってはいられないと思いました。ドナーカードを提示したとたんに救命治療が臓器保存術に切り替えられている例が多いので、ドナーカードを提示する時期も考える必要があると思いました。もし家族の承諾さえあれば、本人の意思にかかわらず臓器を提供できるようになってしまったら、さらに早く臓器保存術に切り替えられてしまうのではないかと思いました。


励まし続け、一緒にがんばる看護婦になりたい
 私は今ドナーカードを持ち歩いています。けれどまだ記入はしていません。というより、怖くてできないのです。医技短に入学する前はドナーカードをなんとなく持っていて、「これでだれか困ってる人が助かるのなら……」と思って、何度も記入しようと思いました。けれど、なんとなく決心がつかなくてずーっと書かずじまいにしていました。
 しかし、改めて脳死について勉強した今、自分が脳死をとても軽く考えてたこと、残される家族についてもなにも考えていなかったこと、そしてなによりも脳死に対する知識がほとんどなくて、新聞などで少し読んで得た知識で脳死を知った気になっていたことに気づき、とても恥ずかしく思います。
 同時に、私と同じように脳死を軽く考え、ドナーカードを持ち、記入しているなんて人が世の中にどれだけいるのだろう? 世の中の人たちが脳死に興味を持ち始め脳死について知ろうとし、新聞やテレビを気にし始める。それはいいことだと思います。けれどその反面、脳死の間違った知識が人々の間で流れ、脳死を一種の流行と考えている人が多いような気がします。
 私が本を読んで一番ショックだったことは、脳死になるかならないかという患者さんを医療者側があきらめ、早く臓器移植を行いたいと思い、提供を強制しているということでした。脳死になりそうな患者さんだからこそ、できる限りの治療をし、奇跡を信じるんじゃないだろうか? それなのに、医者も看護婦もあきらめて脳死になることを期待している。こんな医療は絶対だめだと思います。もうすぐ脳死になってしまう人、それをさせまいと必死に祈る家族。そんな人たちを励まし続け、一緒にがんばる、私はそんな看護婦になりたいです。


日本の救急体制のひどさに驚きました
 私もドナーカードを持っていて、すべての臓器に提供する意思を表示しています。「自分の意思」とは言っても、実際に自分が脳死になったら、決断を迫られるのは自分ではなく家族です。そのことを考えると容易に(という表現は適当ではないかもしれませんが)ドナーカードを持つことは、家族のことを考えるとよくないのではないかという思いさえ感じました。ドナーカードを持つということは、自分1人の問題ではないので、家族とよく話し合うことが大切だと思いました。
 本を読ませていただくと、日本の救急体制のひどさに驚きました。救急の場合、患者さんは病院を選べません。医者を選ぶこともできません。救急救命が必要な患者の家族はパニック状態に陥っています。私は消防署の救急講習を受けて、そのときに119番する家族の声を聞きました。3才の子どもさんがお風呂で溺れてしまって意識不明。母親は電話の受話器先で泣きわめいていて救急車の出動先もわからず子どもさんは亡くなってしまいました。そのときの母親の声はすさまじいものでした。そのテープを聞いてるとき、だれもが息を飲みました。人間のパニック状態は冷静な判断ができないということがよくわかりました。そんな状態で家族は医者だけが頼りなのです。その医者がバイトの医学生とかだったら……。適切な処置もなされないまま、患者は亡くなってしまうのです。そんな救急体制では、助かる人でさえも脳死になったり、亡くなったりしてしまいます。


手軽にドナーカードを手にできる世の中で、命は軽くなる一方
 脳死になったら、臓器を提供するドナーになること、それは一見簡単なことに思えるけれど、真実は家族の深い悲しみやたくさんの問題が生じる難しい問題なのだと感じた。
 今まで、脳死になっての臓器提供ということを深く考えるまでは、自分が臓器提供の意思があればドナーになればいいと思っていた。家族の思いなどは全く考えていなかった。逆に今もし、家族の臓器提供を迫られたとしたらと考えたら、絶対に拒否するだろうと思う。ドナーカードをもし家族が持っていたとすれば、ドナーカードの存在を憎んでいたと思う。
 こうして深く考える機会がないと、臓器提供への意思はカード1枚にマルをつけるだけで終わってしまう。私も、臓器提供の意思表示カードを持っていた。命の重さとはうらはらにこの臓器提供の意思表意カードは病院など、どこでも気軽に手にできる。私のようになにも考えないで、ただ人の役に立てればいいと思うだけで気軽に手にし、臓器提供のドナーになってしまう人がどれほどいるのだろうか……。その分だけ、悲しむ家族がどれだけいるのだろうかと、今考えると怖いことだと思う。けれど、手軽にドナーカードを手にできる世の中では命の重さは軽くなる一方だと思う。臓器提供ということを抜いても、脳死の問題は深刻だ。まだ温かいのに、生きているかもしれないという家族の希望とは全く逆に医師たちは脳死の判定基準によって脳死であると判定する。判定基準を満たすと脳死者として扱われ、臓器提供をするドナーになるかどうかの決断を迫られる。そのときの家族の気持ちはどうだろうか。身内の死を受け止める時間もないうちにドナーになるかどうかの決断を迫られる。家族への愛情が深ければ深いほどその家族の死を受け止めるのに時間がかかるはずだ。


コーディネーターの一言
 たとえば高知赤十字病院の事件で、新聞に出てくる女性のコーディネーターは「これで気が変わって移植をおやめになってもやむを得ません」と言っていますが、これはまさしく移植のことを一番に考えていることがよくあらわれている場面と言えると思います。この家族はその言葉をよいふうに受け取っているようですが、もし私がこの家族であったらきっといやな気分になってしまったと思います。
 もし医療者たちが中立の考え方ではなく、どちらか一方の考え方を持って家族に接したとき、どうしても自分の考えているほうへほうへと導くような言葉やそぶりをしてしまうと思います。落ち着いて物事をきちんと考えられなくなっている患者さんの家族がその考えに振り回されてしまう可能性あある、いえ事実、残念ながらそうなってしまった家族がいるのです。
 本を読んで一番思ったことは、前からドナーカードに記入して持っていましたが、いかに自分は脳死、臓器移植のことについて、医療者になろうというのにそのことについて知らなかったのだろうと感じさせられました。私だけでなく人々はあまりにも安易に自己決定を下し過ぎているのではないかと反省させられました。


残された家族の苦しみというものを感じた
 助かる人も助からなくなってしまう。この本に載っているいくつかの話を読んで、その意味が少なからずわかった気がする。
 突然「脳死状態です」と伝えられた家族に冷静な判断ができるのか。移植以前になすべきことはなされているのか。さまざまな問題があるように思う。
 私は今までも脳死と臓器移植を一緒にして考えるのはおかしいと思っていたし、まだ温かい体を切り刻んで臓器を取り出すことを家族が受け入れ承諾することはとても残酷な気がしていた。しかし、実際に家族が脳死になったことはないし、本当の苦しみというか家族の気持ちまではあまりわかっていなかったように思う。「臓器提供を希望する本人は亡くなり、残された家族が手続きをするわけですが、突然の死で大きな衝撃を受けている人にとって、それはあまりにも重い役割です。家族の脳死と言われても奇跡に賭けたい気持ち、これ以上痛い目に遭わせたくないという気持ちをもっと知ってほしい」という言葉で改めて臓器移植での残された家族の苦しみというものを感じた。家族にしてみれば脳死だと言われようと、もう助からないと言われようと、絶対最後まであきらめれないだろうし、まして体がまだ温かいのにそこから体を刻んで臓器を取り出すことはできないと思う。


世間一般の人々はこのことを知っているのだろうか
 脳死を人の死と言えるかと聞かれたときに、なんの迷いもなく人の死であると軽がるしく答えられるのは、脳死についてあいまいな知識か、もしくは無知である証拠だろう。
 私も、脳死について深く知るまでは、人の死として脳死をとらえようとする考え方のほうが強かった。痛みや感情を伴わないのなら、そこに生としての意味はないのではないかと。たとえ脳以外の体内の諸臓器の機能が失われていなくとも、意思力がほんの少しでも見られず、また回復の見込みが全くありえないのだったら、その人にとって生きていくことの意味がないのではないかと考えていた。
 しかし、この本を読んで、脳死と臓器移植について非常に驚くべき実態を知らされた。世間一般の人々はこのことについて知っているのだろうか。
 一時期、脳死や臓器移植についてマスコミ等の報道が盛んにはやしたててから人々もそれらに強い関心を示すようになった。そして、脳死は人の死、臓器移植は本来助からない患者を助けるすばらしい行為だという考え方をうえつけられた人々は少なくないだろう。その影響を受けてドナーカードという、脳死後自らの臓器を提供するという意思を示すカードがあらわれた。そのドナーカード、病院やコンビニなど身近なところに置いてあり、ご自由にお取りくださいというようになっている。以前、それを病院の受付で見かけたときそのカードの入れ物の中には1枚もカードが残っていなかった。私はそのとき、みんなが臓器移植に対して関心を持っているのだ、すばらしいなどという安易な考えを持ってしまった。それくらい周りの人もドナーカードを持つことに対して軽がるしい気持ちしか持ち合わせていないのではないか。私が死んだら他の困っている人のために無償で協力してあげようという気持ちしか持っていないのだろう。それは、確かに純真で無垢な心かもしれない。しかし、それと同時に、まとわりつくさまざまな複雑にからみあった問題についてはなにも知らない。
 脳死や臓器移植には、医療従事者が患者を助けようとする気持ちよりも、その行為そのものだけをなんとかしようとする意識のほうが強いような気がしてならなくなってしまった。そうではない医療従事者もいるだろうが、各地で起きている事件や実態を知ると、人としての尊厳が軽く扱われているように思える。


大切な人の命を絶つことを決定するなんて、本当に残酷
 私はドナーカードを持っています。サインをし「提供します」にマルをつけ、親のサインをもらいました。だけど、ドナーカードについてのこの本を読んだとき、本当に持っていて、しかも提供するほうにマルをつけていていいのかわからなくなりました。ずっと臓器提供は人助けだからすばらしいことだと思っていて、家族の苦しみなんて考えていませんでした。
 脳死に陥るケースの多くは、事故によるものが多くて、だから家族にとって突然の死で、目の前が真っ白になってなにも考えられないし、信じられない状態のところにいきなり「臓器をください」と言われても「どうしてあげなくてないけないの?」という思いにかられるのは当然だと思う。「脳死」は今まではもう助かることなんてないのだから、死んだと決めていいと思っていたけど、家族の思いを考えると死ではないのだなと思った。息をしているし、まだ温かいし、心臓は動いているのだから。だから、眠っているだけかもしれないとだれもが思いたくなると思う。そんなまだ温かい体から、人工呼吸器をはずし、体を切り開いて臓器を取り除くなんて考えたくもない。
 自分の「提供に同意する」の一言とサインで大切な人の命を絶つことを決定するなんて、本当に残酷だと思う。そして本人の意思だってもう意思のなくなった今ではどんなに親しくしてもわかるはずがないのだ。ここでOKすればずっと後悔することになるかもしれない。本当に家族にとってつらく、厳しい決断だと思う。

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