「薬害が消される!」さいろ社の本ホーム


花井十伍さんインタビュー
(全国薬害被害者団体連絡協議会代表世話人、HIV薬害訴訟大阪原告団長)

100年後に来る
はるかなる医療ルネサンスまで
この非人間的な時代に何を求め
どう生きるべきか


『いのちジャーナルessence』No.6(2000年11-12月)より転載


あと100年続く「非人間的時代」に、私たちは薬とどう向き合うべきか。小誌別冊MOOK2『薬害が消される!』で明らかにされた薬害をめぐる問題の背景を、「薬被連」代表世話人が文明論的視点から突っ込んで語る。

(聞き手・松本康治/いのちジャーナル編集長)



ダイオキシンと薬害エイズ、どっちが大事?

松本▼今回発行された『薬害が消される!』では、薬害が学校の教科書から消されていくことがおもなテーマになっています。教科書はページ数が限られてますね。作る側の人にすれば、なにを載せてなにを載せないかの判断が必要でしょうし、検定する文部省側も同じでしょう。

 99年には、ある教科書会社が薬害エイズを載せていたのに、文部省の教科書検定によってそっくりダイオキシンに置き換えられました。薬害も公害も、どっちも大事な問題だとは思います。薬害の被害者にしたら薬害は絶対に載せてもらわないと困ると思うんですけど、なにを載せてなにを載せないかっていう判断をする場合に、薬害はなぜダイオキシンに置き換えられたのか。また、それでも薬害を載せよとする根拠は何ですか。

花井▼2つ問題点があると思います。
 1つ目は、薬害の問題がどういう問題なのかっていう認識の差です。  国は、人の命は大事だということを否定はしないと思います。ただ、薬害に限らず公害においてもそういうことは言えるわけですね。

 ところが、基本的に「薬害とは何か」という認識は、公害など比べ物にならないくらい遅れている。「薬には副作用があるんだからそれは仕方ないんだ」とか、また昨年の文部省交渉での官僚発言に「薬物乱用はよくない」とかいうのもあったりして、薬害っていうものがまず、公的に共有されてないという問題があるんです。共有された段階で初めて、いわゆる一般的な公害として、もしくは技術とリスクという脈略の中でどこに落とし込む問題なのかっていう整理がなされるわけですが、それを国が整理できてないのが、まず第1点。

 それから第2点目は、ダイオキシンと薬害エイズの問題でいえば、これは推測ですが、明確に国が責任を認めて、だれの責任において起こった被害なのかが明確になったものを載せることに対する強い抵抗ですね。過去に国が明らかに失策をしたということは扱いにくいという、国のメンツとか、そういった問題。

 ダイオキシンもおそらく国、自治体が批判されてるわけですが、結局は国民みんながそれを考えていかなきゃいけないという環境問題として耳ざわりがよいし、だれがそれを責任を持ってやるのかということはわりと曖昧で、扱いやすい。

 つまり、根本的にわかってないという問題と、お上が確実に悪者になるようなものは避ける。この2つがあって、削除されてしまう。でも、だからこそ被害が繰り返されるのであり、早急に載せてもらいたいのです。

松本▼企業の名前がはずされていくのも、やっぱり固有名詞を出すのはいやなんですかね。

花井▼そうでしょうね。企業の場合は死活問題ですから、彼らなりにありとあらゆる手段を使って自社の悪いイメージを消そうとするでしょうし、当然、過去の加害者としての非を認めた薬害事例などは早く忘れてほしい。そういった勢力がいろんな形で活動してる中で、消されていく部分はあるでしょう。

政治的に利害が絡み合う学習指導要領

松本▼今回、薬被連のみなさんで教科書会社をまわられたわけですが、教科書会社の反応はどんな感じでしたか。

花井▼教科書会社は、社によってもちろんカラーはありますが、教科書会社なりにポリシーを持っています。たとえば、特に戦後教育は子どもを戦場に送らないとか、命の教育とか、そういった発想でやらなきゃいけないという認識はあったりする。でも営利企業だから、教科書が教科書として売れなければどうしようないっていう事情がある。

 掲載の優先順位として、まずは学習指導要領があります。これに載ってるものを載せないと教科書として認めてもらえない。学習指導要領に薬害という言葉が一語でも載ってれば、教科書には薬害を載せないわけにはいかなくなる。

 その次に、学習指導要領に載ってないことを書く段階が教科書会社の裁量になるわけで、そこで薬害をどう扱うか。でも、そこには文部省の検定権がつく。だから、薬害が大事なのはもちろんわかるが、ほかのいろんな問題の中で薬害が特に大事だと決めるには、教科書会社としてはなにか特別な理由がないとやりにくいということはあるんじゃないでしょうか。

松本▼学習指導要領っていうのは、どういうものなんですかね。これこれは載せなさいっていうのがだーっと書いてあるような。

花井▼あと人名ですね、福沢諭吉とか乃木大将とか。
 某出版社がこんな例を挙げました。昔盛んだった産業がしぼんでいくとほかの業種を載せるようになりますが、「林業」という言葉が学習指導要領からはずれかけたときに、林業に関連する業界団体がありとあらゆる政治的な活動をしてそれを残した。すなわち、ある種の権力であれ業界であれ、教育がいかに大事かというのをみんな知りつくしてますから、学習指導要領から自分たちの利益になる言葉が消える、もしくは自分たちの利益になることが載るという話になると、それこそ改訂の何年も前からありとあらゆる活動をするという、極めて政治的な場であるとのことです。で、「あなたがた被害者が薬害をもし学習指導要領に載せようとするならば、それなりの覚悟を持って闘いに臨まないと一筋縄ではいかない」と教科書会社からハッパかけられた(笑)。

 今度、教育審議会が、10年に1回の見直しだった学習指導要領を「随時見直し」に変えました。したがって、載せる載せないの闘いも、10年単位の長期戦だったのが、短期戦の様相を呈してきているようです。

 大きな対立軸としては、1つは、日本を愛する気持ちがないとか、日本人の知性が落ちてきたことを憂慮する、えせ愛国者どもの勢力ですね。もう一つは、グローバルスタンダードの中で、ゆとりの教育で各人の個性を伸ばすという、おおざっぱに言えばそういう勢力とのバトルがあるんでしょう(笑)。

松本▼「随時見直し」をしたがったのはきっと「愛国」の人たちでしょうね、今の世の流れからいうと。

花井▼まさにそうだと思いますね。ただ、薬害っていうのは、実は極めて超党派的問題であり、側面としては今言った愛国的な勢力とも利害が一致する問題ではあるんです。なぜかっていうと、製薬は基本的には国際企業だし、結局、海外の企業が日本で経済活動している中で起きてくる問題だから、その安全性を日本人の安全のためにきっちりと監視していくっていう発想は非常に愛国的ですので。政治的に言えば超党派的問題であり、当たり前の正論の世界なんですね、薬害防止というのは。

松本▼ふつうに話してわかる話でしょうね。

花井▼わかるでしょうね。

ソロバン勘定の論理に冒された厚生省

松本▼『薬害が消される!』に載った「厚生省への要望に対する答え」の中に、「薬害が起きたら、企業は瞬間的には隠蔽はするかもしれないが、それの後始末とかのリスクが大きいことが製薬企業側もわかってきてるので今後はちゃんとするだろう」っていう答えがあったんですけど。

花井▼極めて楽観的なばかなこと言ってるね(笑)。逆に言えば、被害が出てもお金をそんなに損せずに売り続けたほうがいいっていうそろばんをはじいた場合は、患者には犠牲になっていただくっていうことでしょ、これは。薬害エイズのときがまさにそうだったんですね。

 カッター社の記録には、初期の段階から「こういった問題によって訴訟が頻発するだろう」という警告があったわけです。それは、命に対する警告ではなくて、もちろん経営に対する警告ですよ。カッターの警告については、「それを無視することによって患者の命を無視した」ってよく言われるんですが、そうではなくて、そこでそろばんをはじいた結果、売っちゃおうということをやってるわけです。

 たとえば、加熱製剤と非加熱製剤が日本のマーケットで共存してる時期に企業が考えていたのは「非加熱をどこに売れるのか」ということ。「日本では 年にはどうも加熱が認可になる、そうすると非加熱製剤をどうしようか」と。そこで世界中の情報を集めて、「香港や台湾はまだらしいからそっちで売ろう」あるいは「非加熱を扱う工場を1ヵ所に集約して、そこに加熱プラントに残っている非加熱用の材料をまわす」とかね、ちゃんと計算してやってるんです。

 今回の本にある厚生省の回答は、企業がまさにそういう発想で「隠蔽したほうが得、バンバン売っちゃおう」とやったのが、たまたま計算違いだったということでしかない、ということがわかっていない。まったくナンセンスな話です。

 こういう企業の経済論理ともともと対立する何かがなければ市場主義は成り立たない、というのがぼくの考えです。この厚生省の答えは、対立項を間違えてるんですよ。「企業が被害を出して賠償するのと、もしくはその場合の対策をとるコストをつくるのとどっちがトクか」っていう計算をしている。そうじゃないんですよ。そういう計算をする企業と、それを監視する別のシステムが必要という対立を持ってもらわなきゃならないんです、政策としては。

松本▼企業がそろばんはじくのは当然であって、それをいかに監視するかと。

花井▼まさにそうですね。市場主義っていうのはどうしても一番弱いところがつぶされるっていう原理であるわけだから、その一番弱いところに政策としてなんらかの手当があって、それとの競争によって初めて適切に経済が交流していく。薬害を防ぐとか福祉とかいう問題はそういう政策課題なのであって、それを放棄して、競争原理のそろばんの中だけで大丈夫だというのは、もう能天気を通り越して無知(笑)。

松本▼アメリカのFDA(食品衛生局)なんかは日本の厚生省に比べて厳しいでしょ。あれは厳しくしたほうが企業がちゃんと育つということでそうしてるわけですか。

花井▼そうですね。査察もたまにやるけど、徹底的にやる。見つけたらもう絶対許さないって感じですね。アルファ製薬も、再査察でまだ改善してなかったから完全に工場を止められちゃったりとか。

 これは例ですが、ドイツの鉄道には改札口がないんですよ。その代わり車掌さんは警察官みたいなやつで、キセルが見つかったら犯罪者として引っ張られていく。それにはコストもあると思います。常にたくさん人員を配置してチェックするほうがいいのか、みなさんに任せますよ、ただし見つけたらただじゃおかんぞっていうのか。どうもFDAの査察は、ドイツの鉄道の車掌さんにちょっと似てるんじゃないかなと思いました。

 日本の場合は、製薬企業に官僚の先輩がいるからね。天下りした大先輩が社長とかだったら、「君、今度査察に来るのかね」「そうなんです、準備よろしく頼みます」みたいな話じゃないですかね。いわゆる護送船団で、なんとなくみんなで調整しあいながら、あうんの呼吸で。

 まさに薬務局っていうのはそういうとこだった。企業の育成と監視を両立させていたわけだから。理屈の上ではありえないでしょ。でも日本はそれで成り立ってた。これではもうとてもじゃないけど薬害防止とは全然違う世界ですね。

菅直人がかいわれ大根を食うシステムの破綻

松本▼薬害エイズ以降、薬務局が医薬安全局と切り離されて、ちょっとはマシになってるんですか。

花井▼やはり難しいですね。安全に関する情報は一応1つの課に集約することにはなった。ただ対応を決める段階で、いろんな関連課・関連省庁があって、そこで緊急会議を開くっていうのが今のかたちですね。この前その会議である薬の任意回収を決めて、この対応ができてすばらしいと胸を張ってましたが。

 ただ、ぼくが問題にしたいのは、今は回収したらだれもが誉めてくれる状況でしょ。企業もあまり文句を言えないし、国民も支持し、マスコミも支持し、GOサイン出しやすい環境でそれを決めるほど簡単なことはないですよ。

 薬害エイズで学んだのは、加熱の開発が遅れていたメーカーがあり、赤十字には赤十字の都合があり、血友病には血友病の都合があり、みんな勝手なこと言う中で意見対立があるわけですね。それで、どれが正しいかはすごく難しい問題だった。そのときにどう対応できるかが問題だったわけです。そういうときに、あの調整方式ではだれが判断するのかわからないから、何もできなかった。

 つまり、いろんな対立があったけど、最終的に「回収だ!」と責任を持って誰かが決めるのがまさに危機管理のトップダウンです。今の方式はそういう対立項が出た瞬間に破綻するシステムなんです。回収したらみんなが誉める状況の中で回収を決めたって、自慢にもなんにもならないわけで。

松本▼対立したときにだれが決断するのかですね。

花井▼まさにそうです。それが危機管理システム。
 象徴的なのがこの前、献血についてアメリカでFDAとCIA(アメリカ中央情報局)の対立がありました。献血には「任意・無償・匿名」の原則がありますが、血液の安全性を確保しようとすると、個人情報を多く集める必要があって、匿名性が後退してきている。ところがCIAが、「うちの職員はみんなスパイだから個人情報は困る。でもうちは愛国者の集まりであり、アメリカ国民のために献血をしたいとみんな言ってる。だからCIAの職員だけは特別に個人情報の部分はなんとかならないかね」とFDAに調整をかけました。そしたらFDAはそれをバーンとはじいた。「安全が優先、例外は認めない」と。CIAがブーブー言っても、FDAは頑として譲らない。
 これは、「安全に関してはFDAだから」っていう発想なんです。CIAだろうがなんだろうが知ったこっちゃないんですよ。

 ところが日本では、O157のかいわれ大根の例ですよ。本来、厚生省は、かいわれ業者がつぶれようが知ったこっちゃないわけですよ、感染症対策の面では。なのに、厚生大臣がかいわれを食べてあげなきゃいけないシステムになっている。その状況では何も決められない。

松本▼農林大臣が食えばいいんですね。

花井▼そうなんですよ。厚生大臣がかいわれ食っちゃったらだめです。かいわれ業者のおじさんはそれは気の毒よ。でも、そんな話は厚生大臣には関係ない。  かいわれ事件はまさに調整型の最悪パターンです。安全に対する責任を持つ者と、かいわれ大根業者の生活に責任を持つ者とは、それぞれの責任において譲る必要はないのです。調整不可能です。 これから大切なことは、そこでせめぎあう話がオープンになされるという形しかありえないでしょう。

厚生省よ、負けてもいいから立ち向かえ

松本▼その判断は、だれが責任を持ってやるべきなんですか。

花井▼もちろん厚生大臣ですが、局でいえば医薬安全局がやるわけですね。ところが複雑化してますから、必ずしも医薬安全局だけではまとまらない。それから、薬は非常に輸入に依存しているわけだから、その意味では最も強い通産省の意向がある。日本が突出した安全基準を立てれば、関税が障壁となるわけです。今以上に厳しくするのは、事実上、今はできないでしょう。国際的にはハーモニゼーションが推進されている。国際基準でやるんだと。

 そういう発想にならざるを得ないけども、やはりせめぎあう部分はあるんです。特に欧州は域内で統一しようとEUをつくってますけど、その中でも、たとえばフランスはすぐにだだこねるとかね。それがせめぎあいなわけです。フランスはフランスなりの自国に対する誇りと自国民に対する責任というところでせめぎあうわけで。それは国際基準だろうがEU基準だろうが闘うわけですね。

 ところが日本の厚生は闘う前に通産の顔を見て、ちょっと機嫌が悪そうだなとか(笑)、会った瞬間そういうことはシュルシュル〜っと言わなくなっちゃう。「もし通産がだめだと言うのなら、それで国民が犠牲になったらおまえのせいだぞ」というふうにタンカを切る厚生官僚は1人もいない。

松本▼それを言ってもらえるようにしたいですね。

花井▼そうなんですよ。
 今、血液製剤に原産地の表示と、売血の表示をしなさいという要求が患者側から出ています。厚生省は、原産地表示はある程度実現する方向で調整しているという話。ただし、売血表示についてはちょっと勘弁してくれと言う。

 もし厚生省が「売血表示をするんだ」と言って通産省とけんかして、通産を言い負かして、負けた通産が今度は「日本は売血表示をすることにした」とアメリカに通告し、怒ったアメリカにWTO(世界貿易機構)に提訴され、大統領に発言されて、政治力でボロボロにされて帰ってきて「負けたー!」って言うと、官僚も患者も「くそー、がんばろうみんな!」って愛国者的に団結できるわけでしょ?(笑)

 ところが、まず最初に厚生は通産の顔色うかがって、通産はアメリカの顔色うかがって、売血表示しないってことを決めちゃうとすれば、それこそ「国民の命を守るやつがなにやってるんだ」ってなりますよね。

長野産の野沢菜か アトランタの血液か

花井▼もっと深刻な問題は、薬害エイズが起こった頃のミドリ十字をみてもわかるように、日本では海外基準から言えばとんでもないようなものも薬として売られてるわけですね。これは、とんでもなく危険なやつは論外だけど、とんでもなくなんの効果もない(笑)、毒でも薬でもないやつね。効かないのに確実に保険の財布を圧迫する。そういった商品が結構あるわけです。そんなのでも認可しないと生き残れない企業がたくさんあるわけ。そういうのを護送船団で守りながら厚生省が育成してきた。だからメーカーは、行政のいうことを聞かざるを得ない。たとえば儲からない薬でも、これ必要だから出しなさいよっていうと出すとかね。そういうことでなんとかバランスを保ってきた。

 ところが今はもうそうじゃない。厚生ビックバンが起こればおそらく日本の製薬企業はほとんど残らないと言われてます。多国籍企業は次々合併してどんどん巨大化してるわけです。そんな企業は、平気で厚生省のいうことなんか聞かないですからね。そうなってくると、いわゆる指導、調整のレベルではどうにもならなくなってきます。

 そこで指摘しておきたいのは、こういうことを被害者が言っていいかどうかわかりませんが、これまでの日本の保護貿易システムっていうのは患者に対しても行なわれたわけです。つまり、日本国民に対しても、そんなに消費者意識を持たせずに、ややこしいやつは排除して護送船団で守ろうやないかっていう発想です。金融ビッグバン前の金融商品と日本人との関係と同じ。国民はなにも考えなくても、車の保険なんてどこで入っても一緒、銀行は三和でもさくらでも安心やという発想でいけたわけでしょ。それが実は日本の薬事行政でもあったわけで、国民も安心して寄りかかってきたわけです。ある種それでいけてる分野もあったわけですよね。もちろんそれでいけなかった致命的な分野がまさにぼくら被害者の部分なんですけども。そういう意味ではそこで助かってた日本人もいるということは一面の事実だと思うんです。

松本▼助かってたというのは。

花井▼つまり、なんにも考えなくても薬害に遭わなくてすんだ。日本では今までは、そんなに効かないかもしれないけど、そんな危なくもないという薬ばかりだった。よく効く薬っていうのはリスクも高いわけですね。ガスター(H2ブロッカーの胃腸薬)がいい例です。ああいうものが市販薬として市場に出てくるっていうことは、そのキレのよさと引き換えに大きなリスクを背負うんだということを、患者としてもしくはユーザーとして知りながら選択していく自覚が求められるわけです。

松本▼アメリカなんかでは、それでむちゃくちゃになってもその患者の飲み方が問われるという側面もあると。

花井▼ただ、医薬品の場合はその安全性を判断するのに高度な知識を要求されるっていうのが1点。それから指示薬の場合であれば、医者との関係と情報公開の問題があります。そこが一般の商品と異なる。

 だから、単にリスクを医者が言うのだけがインフォームドコンセントではないですね。患者と医者の間になんらかの信頼関係とかがあって、その中で患者が判断できるような環境を提供して初めて患者に対して責任をある程度背負わせることができる。確かに市民側の自覚も必要なんだけど、しかしそれができる環境を整えるのがまさに国の責任であって、消費者が医薬品をきっちり選べるためには、単純にカタログとか添付書類があるだけではだめなわけです。患者側がそれを選んでいける環境をどのようにしてつくるかという政策と両輪をなすわけです。

 日本にはそれがない。だから薬の問題が医療の問題になっちゃうんです。なぜかっていうと、指示薬の場合、メーカーはあたかも医者が消費者であるかのごとく営業するから。消費者に営業しないという特異な商品ですね。医者の顔色うかがえばいいわけでしょ。それはなぜかというと、医者が処方したものは消費者がそのまま受け入れるっていう前提があるからです。

 ところが医者が処方しても、患者がセカンドオピニオンなどで別の意見を言えるような環境があれば、初めてそこでふつうの商品と同じ管理になるわけです。現状では消費者主権が成り立ってないんですね。

 さっきの血液製剤の原産地表示の問題で言えば、こういうときに限って杓子定規に厚生省は「その表示が安全に関係するかどうか」っていうことを言うんですが、患者にしてみればそんなの知ったこっちゃないんですよ。長野産の野沢菜と四国産の野沢菜があって、長野産がほしいと言ったときに、「四国産でも長野産でも同じものなんだから、それ言うのおかしいですよ」なんて言われたって、消費者は知ったこっちゃない。長野産のほうがうまそうだと思って選んでるわけで、それが自由な消費行動でしょう。そういうのを野菜では認めてるくせに、薬で認めないっていうのは言語道断なわけです。

 アトランタの血液とニューヨークの血液があって、安全性は一緒だってメーカーは言うかもしれないけれど、「この前ニュースでアトランタで原因不明の病気発生とか見たし、いやだよ」っていう声を認めない消費者主権なんてありえないですよ。結果的に安全だったらそれはそれでいいわけで、それはかいわれと一緒ですからね。そういう状況に薬はないわけです。

松本▼野沢菜よりずっとその判断が重要であるにもかかわらず。

花井▼遺伝子組み換え大豆であんだけ大騒ぎするくせに、患者は遺伝子組み換え製剤を無条件に注射してるんです。

松本▼注射してる中身について情報を得られないんですね。

花井▼スーパーへ行ったら「私がつくりました」っておっちゃんの写真とか載ってるじゃないですか(笑)。しかもそれは代替できるわけでしょう。こんなレタスいややわ、こっちにするわって。ところが薬みたいに選択の余地ないものががちがちの秘密主義で、しかもその安全性は科学的じゃなきゃいけないとか言って専門家だけが判断してる、だから安全だなんて話を鵜呑みにできまっか!

複雑社会で「専門家の判断」は成立しない

松本▼なぜそうなんですかね、薬に関しては。

花井▼どこか素人にはわからん世界だというのがあるでしょうね。お医者さんは「患者は説明しても結局お任せしますっていうじゃないか」とか、ごちゃごちゃ言うとかえって混乱するとか、そういう発想があるんでしょうけど。本当は混乱なんかいくらでもしたらいいんですよ。

 専門家が本当に専門家として優れていて、1つの専門領域を持つものが何かを判断できるというようなシンプルな社会であれば、それも1つの考え方でありますが、残念ながら今はそういうシンプルな社会ではないですね。薬害エイズは80年代の事件ですが、当時の専門医たちが新しい感染症と血液製剤との関係において何らかの判断をするというのは、あまりにも身にあまった状況だったわけです。

 そのときに、よく引き合いに出すオランダの例では、「もうわけわからへん、でもとりあえずなんとかせなあかん」という 年後半に、血友病患者、医者、ゲイの人たち、保健所、役人、赤十字と、要するに関係してそれをよく知ってそうな人たちを全部呼んできて議論させた。そこでけんかしたりしながら、結局オランダがやったのがクリオ転換だった。

 オランダの17%という感染率が高いか低いかわからないし、その結果は間違ってるかもしれません。クリオに転換したことによって、大量に血液製剤を投与する必要がある患者については、もしかしたら葛藤があったでしょう。輸入も当時はあったから。おそらくそこでは、エイズのリスクのある輸入を使うか、転換した国内産クリオを使うか、もしくはどうするかという選択肢があり、その判断をだれかがして、という個々のドラマがあったと思います。そういうドラマが生まれるような環境は最低限必要だったわけね、日本でも。

 ところが日本では、うやむやのうちに、わけのわからん1つの選択、しかも何かを選択したんじゃなくて「何もしない選択」をして患者に押しつけた。それは、なにもできなかったということの言い訳にはならないと思うんです。わからんかったらわからんと言えや、というのが患者の立場。1つの問題において、1つの専門性だけで判断できる範囲はどんどん狭まってきてるってことです。

製薬企業に江戸っ子の心意気を求めても無理

松本▼今回の本で言っておられるように、消費者が消費の専門家として議論に加わるということをオランダはその時点でやったわけですね。

花井▼そうです。わからないときは患者に聞くことが必要だっていうのが当たり前なんですね。
 日本の場合は、たとえば 年の厚生省の記者会見で、感染症対策の担当官僚である野崎さんが「エイズの第1号患者をどこからどういう形で患者を出すのが重要であり、いわゆる軟着陸をするのが重要である」と言いました。要するに複数の患者を把握していて、「第1号」と発表して1番すわりのいい人を選ぶということを白状してるわけですが、こういう発言がテレビで平気でできてしまう感覚。これがまさに当時の日本の官僚の感覚だったわけです。無知蒙昧な国民に難しいこと言ってもわかんないし、すぐパニックなったりヒステリックになったりするから、我々がちゃんと軟着陸させなきゃいけないということですね。
 しかもぼくに言わせれば、その場合「国民」の中に我々血友病患者は入ってないわけです。

松本▼オランダの状況は、たとえば日本で安部英被告がいろいろやってたときに、その話の輪に患者が入ってるようなもんなんですね。

花井▼そんな感じですね。当時で言えば石田吉明さんとかが入って、しかも全部公開で議論して、せめぎあうあけです。

松本▼うらやましいですね。

花井▼そこは文化の違いもあるんでしょうね。必ずしも日本的な調整型がデメリットばっかりだと言い切るつもりはないけれども、少なくとも薬害についてはあまりメリットはなかった。なぜかっていうと、これは危機管理システムだけですから。薬を売るのは一般的な経済行為・商売ですよね。一方、リスクを見つけて即座に対応するというシステムは、基本的にまったく別の、性質の違う行為として切り離さなければ不可能です。残念ながら、今の世界のルールがまず経済で回ってる中では、命を守るということはそういう形でしか達成できない。製薬企業に文化を求めても今は無理です。

 文化って、医は仁術であるとか魚屋の心意気とかそういったもんですよ。江戸っ子がこんな魚出せるかい! 3代やってるんや、と。医は仁術であるからこそ、医学的知識に卓越してると同時に人格的にもそれなりのものを持っているんだという自負と誇り、ヨーロッパで言えばギルド的な相互の関係。

 でも、カッターメモとかカッターの企業戦略を見てもわかるように、製薬企業にそんなのないわけです。安全を高めるためのコストはだれが払うのかと、そういう議論しかできない。

 人の命を守るための医療がそれでいいのかという願いと叫びは持ちつつ、残念ながらそういう叫びが届くためには、まだ100年の時が必要なんじゃないかと思います。よっぽど致命的で深刻な世界的危機が来て、このシステムはもうだめだとなると、ルネッサンスという形で揺り返す。そのときに、心とか魂とかそういうものがあるかもしれません。

 が、今そんなこと言ってたら薬害ぼんぼん起こっちゃうからそうも言ってられない。だから、それは置いておいて、やはりユーザーが武装するしかない。メーカーは、自分の薬がいかに安全で有効で魅力ある商品かっていうことを喧伝するさまざまな手練手管を持っていて、それに反対するようなことを言うやつらを黙らす力を持ってる。その中で消費者だけが素手で戦うわけにはいかない。

薬害エイズ被害者の立場は、一般人の未来の立場

松本▼座談会で言っておられたように、少なくとも、このコンピューターの時代になって情報に関しては手に入れやすくなったし、発信しやすくなったってのはある。

花井▼そうですね、だから丸腰からは少し進歩してるわけですね。 そしてそういう非人間的な闘いを100年くらいしたあとに、きっとルネッサンスがくる。ただ、実際に薬害を本当に排除していこうということを怜悧に考える限りは、ルネッサンス論は出てきませんが。

松本▼というと?

花井▼今の社会で薬害を防ごうとすると、権力が規制を強め、薬事法を厳しくし、治験ももっと厳しくすることによって規制していかなきゃいけない、危ないものは出すな、というように考えられがちです。が、それはたぶん非現実的で、かつ消費者もそれを望んでない時代だと思います。

 薬害根絶には誰も反対しない。でも、たとえば低用量ピルですね。治療ではなくて、健康な女性が快適な避妊のために、継続して飲むものです。実際には血栓ができて死亡例もあるというような薬剤なんだけど、それすら欲しがるのがマーケットなわけですね。そういうふうに消費者のほうも、自分が健康であっても、その薬にリスクがあっても、目先の快楽を与えてくれるものに対して非常に評価が高いという事実があるわけです。その中で規制して、出すなと言っても非現実的でしょう。

 交通事故死者が年間1万人、これはなんとかしなくちゃとはみんな言うけれども、じゃあ法定速度の100キロは60馬力で十分だから、交通事故なくすために総60馬力規制だとやった瞬間に反対運動が起こるでしょう。だから、そういった側面を無視して規制当局だけを締め上げるっていうのは、論理としてはすっきりして気持ちがいいけれども、現実的な政策の決定とは言えないですね。

 今問題なのは、薬というものに対して、あまりにも無防備だということでしょうね。自動車ならばスピード出したら危ないっていうくらいのリスクはわかってるんでしょうけど、薬の場合は意外にリスクが見えにくい。たとえばバファリンなんかには、ありとあらゆる薬に対する過敏症アレルギーが出る場合があって、致命的な副作用があるわけですね。そういうリスクは十分には知られていない。

松本▼判断できる環境が必要ですね。

花井▼そういう環境にないですよね。
 薬の危険性をほとんど審査しないまま認可するなっていうことは、ヤコブ病でもスモンでもサリドマイドでも、悪いことの典型であるかのごとく言ってる。でも僕らは、エイズの発症を抑えるためにFDAが半分見切り発車したような薬を日常的に飲みつづけてる。そういう必要があることも事実なんです。複雑ですね。

 逆に言えばそのリアリティーっていうのは、今の日本の一般の方々が置かれた立場の未来と同じだという気がします。薬害エイズの被害者は、致命的な薬害に遭いながら、それでも極めてリスクが高いものを使って綱渡りで生きるという選択をあえてするという、極端な人生選択を両方してる(笑)、とんでもない例ですよね。これは、今の消費者が置かれた状況がはらむリスクと便利さの表裏一体が、典型的に極端な例としてあるのが薬害エイズだなというふうに、ぼくはちょっと思ってるんですけどね。 まさに縮図っていうかデフォルメですよね。

松本▼薬の認可の規制だけを強めればいいというもんでもないと。

花井▼そうです。だからサリドマイドの問題では被害者の人たちのサリドマイド再認可反対に賛成なんですが、しかしサリドマイドを飲みたいっていうHIV患者がいるとすれば、ぼくはその患者を支持します。 それは命がけで飲んでみる、これを飲まなきゃ命がないっていう話。

 わけのわからんテクノロジーにすがって、なんとか命を長らえてみようというのも、それはそれで支持しますね。1度薬害に遭ってんだから薬なんてこりごりだ、これからは自然食品で薬なしの暮らしをしようというのも1つも選択ですが、それは個人の1つの選択でしかない。全体の選択として、「だからもうリスクのある薬品は薬品として認めるべきじゃないんだー!」っていう運動には、ぼくらは加担しようがないですね(笑)。加担した瞬間全滅ですわ(笑)。 わかりやすい立場ですね。

松本▼結局、使うか使わないかを決める場に消費者である患者がいないとあかん、ということになりますね。

花井▼そうです。そしたらこっちは情報をたくさん出せますしね。何人も死んでますから。

はない・じゅうご◆全国薬害被害者団体連絡協議会代表世話人、HIV薬害訴訟大阪原告団長。

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