看護婦と勇気さいろ社の本ホーム

看護教育に導入された『看護婦と勇気』
(月刊いのちジャーナル99.3より)

小社発行の単行本『看護婦と勇気』(さいろ社編集部編)が看護婦の間で静かな話題を呼んでいる。昨年はいくつかの看護大学・専門学校でサブテキストや課題図書として採用された。医療ミスや薬害、「脳死」臓器移植、災害など、ヘビーな医療問題の現実を突きつけられた看護婦たちの実像を描いたこの本を、若者たちはどう読んだのか。彼らはここから何を学び、自分の将来にどう結びつけるのか。国際医療福祉大学看護学部2年に在籍する学生たちの読書レポートから見る


■あまりに安易に考えていた
 この本を読んで、 “看護を行なう”ということの裏側に秘むさまざまな問題や難しさ、責任の重大さを一度に見せつけられた思いがした。看護婦が直面する医療問題は、単に病院という枠を越えて医療過誤訴訟や薬害問題、臓器移植、阪神大震災という社会へと大きく広がってきている。したがって看護を初め医療に携わる人の仕事には、患者に対してだけでなく、社会に対しても大きな責任が伴うことになる。今回この本で取り上げられた問題に対して、自分だったらどのように対処しただろうか、と考えた時、はたして自分は本当に看護という仕事をやっていけるのか、とても不安を感じた。今まで、あまりに安易に看護という仕事を考えていたのではないかと深く反省した。

■今すぐこの仕事を辞めろ
 何年か看護婦という職についてきてさまざまなことを感じ学んできた。私は今まで大きな病気になったこともないし、入院の経験もない。この職を選んだ理由も将来性を考えた故である。それで看護学校に通っていたころまじめな学生とはいえなかったし、いつも「看護婦にこんなに知識がいるものかしら? 看護婦は注射が上手でいつも笑っていればいいじゃない」と今思えば馬鹿だったなと悔やまれる。こんな状態で就職したものだから失敗は他の同期よりもずば抜けて多かった。その数多い失敗の中のあるできごとが、それまでの甘い気持ちをくつがえすきっかけとなった。
 S氏は肝右葉全切除の大きな手術を行なった。術後は思わしくなく一進一退をくりかえしていた。ある準夜勤のときS氏は非常に発汗していた。意識も不明瞭で様子がおかしかったけれど、だれにも報告をしなかった。というより異常に気づいていなかった。それはあきらかに低血糖症状だった。なのに私は一生懸命汗をふき取り、その間に危うくS氏の寿命を縮めるところであった。ちょうど血糖チェックの時間でS氏は救われたが、そのまま数時間も放置されていればまちがいなく死んでいたであろう。
 そのあと先輩のかなりきついお説教があった。いくら新人とはいえ許される失敗とはいえない、知らなかったですまされると思うなら今すぐこの仕事を辞めて家政婦にでもなれば? とまで言われた。そのときはS氏が死んだら辞めようと思ったが、幸い対応が速かったので問題なかった。しかし自分の知識の薄さで人を死に至らしめるところだったと思うと、おそろしくなった。また、このとき医療過誤はたいてい医師の責任になることも知った。担当医師に報告しにいくのがとてもこわかったのを今でも忘れられない。

■殴る蹴るを目撃して退所
 この本を読み初めて、恐ろしいという気持ちで一瞬読むのを止めてしまった。現実にこんなことがあるのか? と戸惑った。なぜこんなにも冷酷な現状があるのだろうか。それも、いつも医療の先端と社会から注目されている大きな病院で……と思う。
 先日、特別養護老人ホームの実習があり、そこで1日療養者として関わった。そしてスタッフの看護・介護の考え方に感動し、老人看護に理想をいだき、充実した実習を終えた。そして翌週はその特別養護老人ホームのディサービスの実習で、先週ホームに入所していた老夫婦に出会った。
「退所をしたのですか? おめでとうございます」と声をかけると、その夫は私を覚えていたらしく、やさしく、穏やかな表情で私に訴えた。「私は 日間入所していました。そこで4回の蹴るや殴る等の体罰を見て恐ろしくなって半身麻痺の妻と一緒に退所することを決め、今はこのディサービスに家から通っています」
 私はそれを聞いた瞬間、自分の耳を疑った。先週は理想的と考えていた施設、そしてそのスタッフが……信じられなかった。しかし結果的には「私の小さな一声が何になるのか」と思い、実習レポートにも書けず、1人の友達に話しただけで自分自身の心に止めてしまった。自分に勇気がなかったことを今になって悔やむ。なぜ本当のことを知ろうとしなかったのか。この本を読んで、1人1人の看護婦が少しの勇気を出し合って一致団結することが患者、家族、そして看護婦としての自分自身を助けることになるのだと思う。

■当たり前のことができない
 勇気とは、人を大切に思う気持ちから生まれてくるものだと考えた。どの看護婦も、学生のころは患者にとって最善のことをしようと考えていたと思う。しかし、病院という社会に出て、そこで自分の立場を保つのが先にきてしまい、単なる仕事としてしか患者との関係を見られなくなってしまったのかと思う。
 このことは一概に看護婦だけが悪いとはいえないと、この本を読んで考えた。1人の看護婦が1人で 患者より病院″といった考えにたどりつくものではない。周囲の人たちも同じように考え、それを当たり前だと思っていたからそうなったのではないか。その異常に気づき、変えていこうとした看護婦や医師の行動は勇気だと思うが、当たり前のことができていない社会が恐いとも思った。

■人を殺してしまう可能性
 「脳死」の章は、本当に怖かった。不幸にして亡くなられた方々は、その家族は、どんなに悔しい思いをしただろう。ここに載っているのは、2例だけだが、他にも同じように、まだ生きられる命を断たれた人は、きっとたくさんいるのだろう。
 彼らが行なったことは、完全に殺人である。犯罪である。普通の人間の精神状態では、とても考えられないことだ。しかし、彼らは普通の人間として暮らしている。仕事を終え自宅に帰れば、いいお父さん、いいお母さんでさえあるのかもしれない。私は、自分にもいつか魔がさして、人を殺してしまう可能性があるのではないか、という気がしてきて、とても怖くなった。

■新しいレールにのった
 今私たちは、多くの人たちが築き上げてきた看護のレールにのっている。しかし、そのレールはいつしか老朽化し新しく作り替えなければならない時がある。そして、誰かが作ったレールに従うだけでなく自らの手で新たなものを築き上げる必要性が出てくるのだ。その時はもちろん誰も行なったことがないことに着手するわけであるから、多くの困難が待ち受けているはずだ。人と違うことをする人には世間は冷たいものだ。それにも耐えなければならない。こういった時に「勇気」が必要になるのだ、と理解しはじめた。この本の中では、長束さんという看護婦はこの新しいレールにのった。

■あこがれでは打ちのめされる
 医療問題と立ち向うとき、私ならばどうするのかと不安でいっぱいになった。しかし、それ以上に、この本で紹介された明らかに不当な扱いをされた患者さんたちへの何ともいわれぬ悲しい気持ちと、何よりその不当な扱いをした医療従事者への激しい怒りがこみあげた。
 そして患者という立場の弱さを改めて知った。また、患者の医師や薬への信頼度の高さというか、頼るしかない現状も知った。患者にとって一番身近で頼れる存在が看護婦であることも再確認した。
 今、私にとって大切なのは、私があこがれている医療の現場を知ることだ。あこがれだけでは打ちのめされる現実の厳しさや、現場の汚さを知ることではないかと考える。さまざまな医療問題を目をそらさず見、それを認めることである。そして、その現場の厳しさの中で勇気を出して患者とともに闘おうとするさまざまなナースの姿を見習い、そこから何かを得ることだ。
 この本は、私を後押しする大きな存在となった。

■人びとを苦しめてきた歴史
 看護婦は“白衣の天使”というような言葉で形容され、一般の人びとは看護婦に対して“優しい”とか“偉い”とか、まるで善意と奉仕の心の塊のようにとらえているように思う。実際、私が看護婦を目指していることを人に言うと、たいていの人が“偉いわね、大変ね”と少なからず尊敬の念をもって声をかけてくれる。そういうことがたびたびあって、私自身少し得意げになっていたのだが、今回この本を読んで、そういう気持ちを抱いたことに申し訳なさを感じた。“これまでの歴史を振り返って、医師や看護婦が本当に人びとのために良いことだけをしてきたのだろうか?”
 ある時は、ハンセン病にかかった患者を強制的に隔離させ、またある時は、HIV感染者を拒絶し、多くの人びとを苦しめてきた歴史が看護婦という職業にはあると思う。たとえそれが逆らえない時代の流れであったとしても、個人的には抵抗を感じていたとしても、人びとを苦しめた加害者の一員であることにはかわりない。

■「患者第一」で吹き飛ばす
 自分の立場を守りたいことや他者からの批判を避けたいという思いを、患者を第1に考えて吹き飛ばすことができることが、看護婦にとって、そして医療者にとっての勇気なのだろうということを私はこの本を読んで感じた。

■自分の浅はかさを知った
 「看護婦に勇気が必要な時ってどんな時だろう」と考えてみると、初めて注射をする時、即座に患者の症状を判断して対処する時、患者の死に立ち合い、そして自分が立ち直る時、くらいしか思い浮かばなかった。しかし、この本を読んで、私の思っていた「勇気」のレベルの低さに驚き、自分の浅はかさを知った。彼女たちの勇気とは自分自身だけでなく、病院に、国に、社会に、そして人間に立ち向かい、何か行動を起こすという勇気だった。
 看護婦にとって勇気とは、正々堂々とした医療が行なわれるため、患者が守られるために必要なものである。そして、看護婦としての責任や、患者への共感の日々の積み重ねが、問題にぶつかったときに、大きな勇気になって出てくるのだと思った。

■言うことは言うつもり
 本書で指摘されている事例に“病院ぐるみ”の問題がある。この場合は対決は個人対組織となり、戦うには相当の勇気が必要である。私がそれを実行するならば、職場を去る心構えでないとできないと思う。しかし組織にぶら下がって生きていたくはないので言うことは言うつもりである。最近は終身雇用が崩れたため、自己責任において行動しなければならないという風潮が高まっている。
 私は自分の意見を貫き通すためには、専門家に反論できるだけの知識を持ちあわせていなくてはならないと思う。医療技術は日進月歩で進歩し、倫理面が追いつかない状況になっている。後で後悔するのは自分なので、勉強を怠らないようにしようと思う。

■医師の前では何も言えない
 強く心に残った感情として、どうして看護婦と医師はお互いに認め合えないのだろうというのがある。前期の病院見学実習で、ある科を見学した時に、看護婦たちがナースステーションでかたまり、医師の行為に対して悪く言っているのを耳にしたことがあった。そんなに不満があるなら直接言えばいいのにと思ったが、案の定、その看護婦たちは医師の前では何も言えなかった。これで患者にいい医療が提供できるのだろうか。こういうところで看護婦の勇気が必要である。

■すでに医療ミスに出会った
 実を言うと私はもうすでに実習病院の医療ミスに出会っている。しかしそのとき私が思ったことは「隠しておいたほうがいい」ということだった。このときは、患者の命に別状はなく、もうすでに高齢で寝たきりに近い状態であったこと、それを少しでも改善しようという目的で行なわれた手術中に起きた麻酔注射のミスであったこと、そして患者とその家族がとても病院とスタッフを信頼し、また入院生活を少なくとも私から見て快適に送っていたこと、などからそう思ったのかもしれない。病院のスタッフにも隠し通そうとするような陰険な考えはなかったように思う。ただ言わないでいたほうが、このまま安心して入院生活を送っていける、そんなふうに私には思われた。
 本に挙げられていたような看護婦の行動は、もしかするとこれまでの自分の地位や仲間関係が壊れたり、安定した環境を失うかもしれない。だが、看護婦としての自分と人間としての自分の捕らえ方、まさにその人の人生観が浮き彫りにされると思う。わたしは、おそらく自分の安定を守るであろう。

■看護婦像を崩したい
 看護婦だから患者に一番近い存在だと直結して考えるのはおかしいと思う。それは看護側が決めることではない。イメージに惑わされずに、今、目の前に起こっていることに客観的に対処すべきであり、1職業としての看護を確立すべきだと思う。私はあえて、自分が看護婦になるという立場をまずは離れて、自分の考え方、見方を作りたい。自分のしていること、周囲のしていること、そのものだけでなく、それが全体的に見たとき、どういう位置にあり、どんな意味をもつのかを見極めることが必要で、矛盾を矛盾と、ミスをミスと認めることが勇気であると思う。私は医療問題に対処していく自分を作るために、看護婦像を崩して、私個人である看護婦になりたい。

■いつになっても先へ進めない
 阪神大震災のとき私は受験生で、その後1年浪人した。時間的な余裕はあったはずである。けれども私はボランティアをしに行こうとは考えなかった。私が行って何かできる保証はなかったし、第一神戸は私にとっては未知の世界、遠いところだからと言い訳をつけたのである。そのとき、看護婦になったら行けばいい、応援の依頼があれば私でも行けると考えていた。しかし、この本を読んで考えが変わった。応援の依頼があっても、大人数で行ったところで的確な割り振りができるわけではない。かえって勇気をもってひとりで飛び込んできた人のほうが役立つ。あのとき行けなかった私が今なら行けるだろうか、看護婦になったら行けるだろうか、勇気をもたなければいつになっても先へは進めない。

『看護婦と勇気』を課題にすることの意味
(城ヶ端初子/国際医療福祉大学看護学部教授)


 学生は、看護学科に入学直後から看護の学習を続けていく。1年生にとって医療は、輝かしいものであり正義であると考える者が多い。また、看護婦は対象への援助活動を通して喜ばれ感謝されるものであると漠然とした思いを持っていることがある。このような学生たちに医療過誤の事例を紹介し、看護婦は何をなすべきか等の講義から、彼らは初めて医療の光と影を知ることになる。
 1年生の終わりに近づくころ、私は初期レベルとはいえ、垣間見た医療・看護の光と影を統合させ、それを引き受けて行動できてこそ看護婦といえるのではないかと学生たちに投げかけ、考えさせることにしている。冬休みの課題は「看護婦と勇気」を読み、「看護婦にとって勇気とは何か?」をテーマにレポート提出することである。学生たちのレポートを読むと、彼らの認識の流れは、ある傾向を示していることがわかる。
 まず、医療における事故に驚き、憤り、患者側に立つものと信じていた看護婦たちの認識と行動が、そうではないこともあるということに信じられない思いを感じる。
 次いで、医療における患者と家族は、医療者に何を期待して医療機関にいるのか?
 さらに、医療者は他の専門職とどう連携し、各々はどのような役割を果たすべきなのか?
 最後に、現状の医療の中で看護婦は、何をなすべきか? である。学生たちは着実にこれらを学んでいく。医療の現状と看護婦の役割を学習する素材として、本書は有益である。なぜならば、本書に登場する看護婦はほとんどが実名であり、その時の彼女たちの認識と行動が手にとるように見えるからである。しかも、難しい言葉ではなく平易な表現が、この学習段階の学生たちに感動を引き起こすようである。真実は、読む者に期待以上に多くを学ばせてくれることを、学生レポートは教えてくれる。彼らのこれからの歩みを見守り続けていきたい。
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