韓国ちょっとした旅ホーム
ぷよ(扶余)

百済滅亡の地



2007.6.28〜29日
(韓国・忠清南道)
注:旅行から1年半が経過してから書いているため、記憶は多分にあやふやでございます。


 公州から乗ったバスが扶余に着いたのは夕方5:20ごろだった。ここが小さな町であることはすぐにわかった。

 というのも、韓国では大きな都市ほど中心部から離れた場所にバスターミナルがあり、しかも高速・市外・市内の各ターミナルがバラバラに立地していることが多いので、なにかと不便だ。でも小さな町では「総合バスターミナル」として全部いっしょに中心部に立地している。
 百済の最後の都、扶余はそんな町だった。

 ちなみに扶余という町の名は、百済を支配した北方騎馬民族、扶余族から来ている。百済は中国東北地方から南下してきた扶余族による少数民族支配の国だった。
 中国東北地方・吉林省の大平原の真ん中にも扶余という町が今もあるから、扶余族のルーツはきっとそのあたりなんだろう。
 百済滅亡時に日本に滞在していた百済最後の王・余豊章のように、百済の王は代々「余」姓を名乗った。扶余族の余だ。

 ターミナルを出て、まずは宿探し。すでに薄暗くなりかけていたのでいろいろ物色するのはやめ、「地球の歩き方」に乗っていたターミナル近くのミョンソンモテルに入った。1泊3000ウォン(当時レートで3500円ほど)。部屋は広くてなかなかよろすい。

 荷物を置いて、さっそく近辺の散歩に出かけた。銭湯は発見できず。

 
(左)唯一のアーケード商店街   (右)ロータリーの中心には百済の王の座像がある(薄暗くてわかりにくい)

 腹が減ったので、プソ山公園の麓にあったナントカ食堂に入ってピビンバを食った。客は俺一人。
 端のほうのテーブルで食っていたら、中央のテーブルに店の人が料理を並べ始めた。予約が入っているのかなと思っていると、準備ができたところで店の人は自分の子どもやバアサンを呼び、店のテレビを見ながらの一家団欒が始まってしまった。
 (その後、これが韓国の食堂のごく一般的な姿であることを知った)

 
(左)シンプルなビビンバ、安かった   (右)お客様の眼前で問答無用に展開される一家団欒

 この日はなんとなく疲れたので、コンビニでビールとおやつを買って宿に戻り、バスタブに浸かってテレビを見て寝た。


 翌日

 健全に早起きして、朝7:00から百済滅亡の地、扶蘇山城(ぷそさんそん)へ向かった。しかし今にも降りそうな怪しい天気だ。
 百済の都は当時、泗批(さび)と呼ばれた。その本拠がこの山城だ。

 山城の登り口には、遺跡の調査途中と思われる発掘現場があちこちにある。
 発掘現場を過ぎて登ってゆくと、山城内は歩きやすく舗装されていて、朝っぱらから何人もの人が散歩している。
 登ったり下りたりを繰り返しながら進んで行くと、見晴らしのいい場所に2ヵ所ほど大きな物見台のような建物が復元されていた。
 この山は公州の公山城よりも急峻でずっと奥行きがある。城の範囲としても規模が大きそうだ。

 しとしと降り出した雨の中をさらに奥へ進んでゆくと、川べりの崖の端に岩場があり、六角形の東屋がしつらえてあった。
 ここが百済滅亡の地、落花岩(なっくぁあむ)だ。

 
(左)山城の麓の発掘現場   (右)物見台のような泗批楼

 落花岩に立つ東屋、百花楼   

 百済は新羅・唐の連合軍にさんざん打ち負かされ、兵士はすでに全滅していた。残された女官たちはここに追い詰められ、ついに迫り来る新羅軍を前にして、この岩から次々に身を投げて死んだのだという。
 その様子があたかも花がはらはらと散ってゆくようだったという言い伝えから、落花岩と呼ばれるようになったらしい。

 百花楼に立つと、眼下に白馬江(ぺんまがん)の雄大な眺めが広がった。

 
(左)白馬江、これが日本で言う「白村江」   (右)対岸はのどかな農村風景

 百済滅亡後、倭の大軍とともに朝鮮半島へ戻った余豊章だが、行動をともにしてきた腹心の鬼室福信と対立して、彼をぶっ殺してしまった。指揮系統が乱れたところに到着した倭の水軍は、さまざまな悪条件が重なって唐の水軍に完敗・・・というのがいわゆる「白村江の戦い」だ。

 その白村江が、この白馬江のことだと言われている。
 なぜならこの川は本当は錦江という名前なのだが、この扶余周辺でだけ白馬江と呼ばれていて、白村江と1字しか違わないからこれだろうということになっている。

 ちなみに「余豊章=藤原鎌足」説、あるいは「余豊章=天智天皇」説というのも存在する。後者の場合、殺された鬼室福信=藤原鎌足となる。
 その信憑性のほどは知らんけど、まあちょうど日本でも大化の改新から壬申の乱に至るゴタゴタがあった時期の出来事だ。
 少なくとも、当時の倭が半島情勢に思いっきり引きずられていたことは間違いない。だって人口希薄な古代に、日本列島の統一もまだ全然できてないのに、何万人もの倭兵が粗末な舟で海を渡って唐に挑みかかっていったっちゅーんやから尋常やない。なにを必死になっとんねんと。

 落花岩から来た道を少し戻り、今度は扶蘇山城の東のほうをまわってみた。

 
(左)天気は悪いが、プヨの町が一望できる   (右)寺院跡、だったかな?

 
(左)山城の城壁だったような尾根道、やはり公山城や鬼ノ城に似てる   (右)軍庫跡、だったかな?

 1周して下りてきた泗批門

 西へ折り返すと急激に山道を下り、下りてきたところに立派な門があった。泗批門とあり、こっちが正面だったようだ。
 ここで入場者からいくらか入場料を徴収しているようだ。でも早朝から入山していた俺は支払わずじまいで出た。早起きは三文の徳って本当なんだね。
 1時間ちょっとの散歩だった。

 扶蘇山城は公山城と同じ錦江を背にした城だが、山はもっと高くて大きく、公山城よりも防衛力はあったと思われる。国が弱体化してきたからこそ、そういうところに都を移したのかもしれない。
 でも滅亡した国らしく、当時のはっきりした遺物は何も残っていなかった。「ここに〇〇があった」という、地面のくぼみがある程度。古代への関心と想像力がなければ、まあ単なる軽いハイキングだな。

 泗批門から1kmたらず南に、定林寺というお寺の跡がある。ここに百済時代の唯一の目に見える遺物、石塔と石仏がある。
 でもまだ8時半だったので、開いていなかった。塀の隙間から石塔の写真だけ撮った。

 百済塔

 ちょうど小学校の登校時間で、子どもたちがたくさん道を歩いている。でも韓国の道路には信号が極端に少なく、車の運転は想像を絶する荒っぽさなので、無事に道路を横断できるのか心配になってくる。
 と思っていたら、子どもらが道路を渡るところには警官がいて、笛をビービー吹きながら車を強引に止めて子どもらを渡らせていた。こんなこと毎日やってんの? でもちょっと安心。

 小さな扶余は、朝のこの程度の散歩でだいたいまわれてしまう。博物館にも少し心惹かれたが、公州でも行ったし、まあええか。いつかまた来るときの楽しみに置いておこう。

 宿に戻ってリュックを持ち、午前9:40のバスで早々に扶余をあとにした。 (08.12.3記)

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