島原<九州ちょっとした旅ホーム
苦難の子守唄



(長崎県島原市)
2008.4.8

赤線が歩いたルート
島原へ

眺める
武家屋敷
さらば島原

島原へ

 雲仙普賢岳に登った。
 そのあとバスに乗って島原半島の南東部にある港町、須川というところへ下りた。そこに1軒だけ残っている古い銭湯に入るためだ。
 風呂に入っているうちに日が暮れた。

 この日は島原市街地のはずれに宿をとっていた。
 べつにこれと言って目的があったわけではないが、以前からなんとなく島原という街には行ってみたかったのだ。

 しかし、須川港のバス停には島原行きのバスはもう来ないようだった。

 
(左)須川港   (右)バス停にはネコだけがいた

 でも国道に出たらまだ走っているかもしれない。
 10分ほど歩いて国道バイパスに出るとバス停があった。時刻表を見ると、果たして1時間ほどあとに来るらしい。
 近くに1軒だけ地味な居酒屋が開いていたので、バスが来るまでそこで時間をつぶした。

 客は俺一人だったがアジは新鮮だった

 やがて来たバスに乗り、半島を北上する。客は俺のほかに一人か二人。

 島国であるがゆえに外国からの脅威にほとんどさらされたことのない日本本土にあって、島原ほど苦渋の歴史を味わってきた場所も少ない。
 もっとも有名なのは日本史上最大の一揆で3万7000人が皆殺しにされた「島原の乱」だろうが、雲仙による火山災害も繰り返されている。記憶に新しいところでは、1990〜1995年の普賢岳噴火にともなう火砕流被害がある。
 俺は阪神大震災の被災者であったがゆえに、同時期の島原の災害は他人事とは思えなかった。

 それとは別に、「島原の子守唄」という曲にも愛着があった。

 おどみゃ島原の おどみゃ島原の なしの木育ちよ
 なんのなしやら なんのなしやら 色気なしばよ しょうかいな
 はよ寝ろ泣かんで おろろんばい
 おんの池きゅうすけどんに 連れんこらるばい

 この歌は子どもらが小さかった頃、寝かしつけるときによく歌ってやった。音域が異様に広いので苦しいのだが、なぜか子どもを抱いているときの気分にしっくりきて、背中をとんとんしながら何百回も歌った。
 南方へ売られたからゆきさんをさえうらやむという島原地方の究極の貧しさをうたった内容で、その歌詞とメロディーには五木の子守唄を髣髴とさせる凄みがある。「鬼の池久助」とは天草に住む、いわゆる女衒(ぜげん、売春婦の人身売買斡旋業者)だ。

 現代の子育てにはまったくそぐわない歌であることは確かだが、それを歌う心境にはふしぎと共通するものがあるように感じていた。小さな子を抱いているときには、幸福感と同時に、なんらかの恐れの感情がつきまとった。
 俺は何を恐れていたのだろう。

 バスは真っ暗な有明海の海岸線に沿ってゴトゴトと走った。島原の町の入口付近に着いたところで、俺はバスを下りた。

 いつになくちょっとしみったれた感傷を持って来た島原だが、この日は山に登ったあとで疲れていたし宿も中心部からやや離れた場所だったので、夜の街を散策する元気が残っていなかった。
 宿の近くの中華料理屋で長崎名物皿うどんを食い、ビールを3杯ほど飲んだらもう眠くなった。それでそのまま宿へ戻り、子守唄を思い出すヒマもなく寝てしまった。




 翌朝は、ぽかぽかの行楽日和だった。
 少し早起きをして街を歩いた。

 宿にあった市内の案内図を見ると、宿の少し南に「浜の川湧水」という書き込みがあるので、とりあえずそのあたりへ向かった。
 細い路地をゴチャゴチャ曲がっていたら、ぽんとこぎれいな湧水地に出た。

 
(左)浜の川湧水   (右)雲仙・眉山の伏流水が湧き出ている

 
(左)湧水の使い方の決まり   (右)決まり通りに使う地元のばあさん

 海と山に挟まれた島原は神戸同様、山からの伏流水が豊富に出るようで、湧き水の里でもあるらしい。
 そのあとこの有馬船津町の界隈を歩き回ったが、狭い路地にひなびた漁村風情が濃厚に残っていて、味わい深い一帯だ。
 このあたりから南は「湊」と呼ばれ、城下町である島原とは異なる漁民の町だったようだ。

 
(左)浜の川湧水の東の路地   (右)船だまりに出た。対岸を島原鉄道の黄色い電車が走っている

 西には眉山がそびえている

 眉山がよく見える。徳島にも同じ字の山があって「びざん」と読むが、こちらは「まゆやま」と読む。
 眉山は「日本三大難山」に数えられているという。治山に難儀する山、という意味らしい。

 1792年、この山は日本史上最大の火山災害を引き起こした。いわゆる「島原大変肥後迷惑」だ。
 雲仙の噴火にともなう地震で眉山は山体がモロに崩壊し、山津波となって島原の街を埋めた。土石流はそのまま海へなだれ込み、その勢いで大津波が起きて、有明海対岸の肥後(熊本県)に大被害を及ぼした。肥後に当たって跳ね返った津波は25mもの高さになって、土砂に埋まった島原を再び襲った。
 この津波の反復は3回繰り返され、島原・肥後の両岸で死者約1万5000人、島原城下では7人に1人しか生き残らなかったという。まさに、自然による「なぶり殺し」だ。

 だが1995年の普賢岳噴火による火砕流被害のときには、この山が雲仙の火砕流から島原の街を守ったのだから、自然というものは複雑なものだ。

 引き続き、菓子パンを食べながら有馬船津町を歩き回る。

 
(左)くねくね曲がる路地にバキュームカーのホース、なつかしい   (右)平屋建ての古い木造家屋が多い

 
(左)民家の軒先がいきなり船着場になっている。こんな家に住んでみたいけど、津波が着たらオダブツだ

 小さな川を渡ると、町名が「元船津町」と変わる。

 
(左)少し南へ行くとまた別の船溜まりが現れた   (右)路地が狭くてパッカー車が入れないためリヤカーでゴミ収集

 
(左)町の中心に井戸と水タンクがあった   (右)井戸ポンプ

 水タンク横の小さな祠には漁港の定番、えべっさん

 
(左)狭い範囲に民家がひしめき、トンネル状になってたりする   (右)行きどまったり

 廃屋も多く、人気は少ない。さびしげな風情だ。だがその反面、歩いているだけで不思議なあったかさを感じる。むかしはこの狭い路地を子どもたちが走り回り、どの家の子も同じように町内で世話されていただろう。家並みがそれを記憶しているかのようだ。
 通りすがりの勝手な感傷ではあるが、できれば区画整理せずにずっとこのまま置いといてもらいたいものだ。


眺める

 ここでいったん国道251を横切って眉山方面へ向かうことにした。中腹から島原の街を眺めてみたい。

 国道の脇にこんなモニュメントがあった

 どんどん坂を登るにつれ、300年前に崩壊した眉山が近づいてくる。
 汗をかいて運動公園まで来たが、工事などをやっていて、それ以上登る道がわからない。仕方がないのでそこからの眺めでよしとすることにした。

 
(左)右奥が七面山、左のギザギザが天狗山、合わせて眉山   (右)「島原大変肥後迷惑」のときに崩れた天狗山のガケ


運動公園からの眺め

 山からの風が首筋の汗を乾かしてくれる。リュックを下ろし、缶コーヒーを飲んで休憩だ。
 春霞で遠くはぼやけ、有明海対岸の肥後は見えない。

 上の連続写真でいうと、左端のほうがたぶん島原の中心部。真ん中あたりが湊。それより右の海沿いにはこんもりとした森が並んでいるが、これは「島原大変肥後迷惑」のときに海になだれ込んだ土砂がそのまま島になっているもので、九十九島と呼ばれている(冒頭の地図参照)。

 ベンチで寝そべって30分ほどだらだらしたのち、北のほうへ下りる。次は城下町のほうを歩いてみることにした。

 町へ下りる途中の家、豆の花盛り


武家屋敷

 市街地の手前で北へ曲がり、民家と畑の畦の間をテキトーに抜けて行くと、突如として整然と保存された昔の武家屋敷地帯に入った。
 道の真ん中を清らかな水が勢いよく流れているのが印象的だ。

 
(左)両側の石垣も立派   (右)茅葺屋根の屋敷も残っている

 
(左)この家は内部を見学できた。しばしくつろぐ   (右)来た道を逆方向から

 この整然とした町並みは、江戸初期に作られた武士たちの住宅団地だ。質素だが裏庭に果樹があったりして、のんびりとした風情が漂っている。

 来た道の隣の道を南下し、東へ出たら島原城の堀端だった。規模が大きい。
 堀に沿ってぐるっと北へ廻り、北門から場内に侵入。城内にはあまり起伏はなく、平城に近い。
 南の端まで来るとやや小高い本丸となり、そこに巨大な天守閣が聳えている。

 
(左)堀に水は入っていない   (右)不相応にでかい天守閣

 天守閣は昭和39年に復元されたものらしいが、破風が一つもつけられておらず、まるで積み木を積み上げたかのごとき奇異な様相を呈している。
 それにしても、城郭全体の規模といい、小さな島原の町には不釣合いに立派で巨大だ。
 この壮大な城の造営が、1637年の島原の乱の引き金となった。

 キリシタン大名が追放されたあとに奈良の五条から来た松倉重政という殿様が無茶をした。
 元々貧しい島原農民を酷使し、過重な年貢の収奪を行なったうえ、キリシタン弾圧のための拷問・虐殺(非改宗者を雲仙の火口へ放り込んだ)、そして4年続きの凶作で餓死者続出といった事態が重なって、史上最大の一揆となったのだ。
 権力によるイジメの結果、起きるべくして起きた乱といえるだろう。
 一揆軍は天草の一揆軍と合流し、天草四郎を大将として島原城に押し寄せたが、堅固なこの城を落とせずに半島南部の原城に撤退。そこで甲賀忍者や宮本武蔵までを動員した幕府側諸大名連合軍の総攻撃を受けて全滅したとされる。

 本丸の出口から眉山の眺め

 城から出て、南につらなるアーケード商店街を南下した。横道に逸れたところに、「島原名物 具雑煮(ぐぞうに)」という幟を立てた食堂があったので、そこでこの名物を注文した。

 具雑煮、たしかに

 もちやカマボコ、玉子焼き、焼きアナゴなど具のいっぱい入った雑煮だ。貧しく過酷な歴史へのアンチテーゼというか、豊かさへの憧憬を感じさせられる島原の味だ。
 おいしかった。

 さらに南へ行くと、「鯉の泳ぐ町」との表示があり、清らかな水の流れる水路が現れた。島原は清水だけはふんだんに出る。しかし人は水だけを飲んで生きていくわけにはいかない。

 
(左)透き通った水に錦鯉が群れる   (右)整備された水路

 
(左)湧き水に風呂屋でよく見るライオンの水吐き   (右)やがて普通の町並みに出た

 少し東へ行くと国道で、それを渡ると島鉄の駅があった。


さらば島原

 20分ほど待って、諫早方面行きに乗った。
 列車は有明海に沿って走る。海すれすれの駅もあった。

 大三東と書いて「おおみさき」と読む駅

 多比良(たいら)駅で下車した。ここから熊本の長洲へ有明海を渡るフェリーが出ている。
 駅からフェリー乗り場までは徒歩数分。30分ほど待つうちに船が来た。

 
(左)やってきた有明フェリー   (右)出航

 有明海と雲仙

 甲板でおじさんがカモメにエサをやっている。カモメたちは大騒ぎだ。

 上の写真で、中央の雲をかぶっている山が普賢岳と平成新山。そこから左にのびる平たい部分は「垂木台地」と呼ばれ、普賢岳の火砕流で焼け野原になった部分。その左に盛り上がった山が眉山だ。
 島原の町はその左の海岸べりにある。

 島原の歴史は、雲仙なしでは語れない。雲仙に人間が振り回されてきた歴史であるともいえるだろう。
 それでも、こんなに危ない山の周囲にも依然として人間は住み続けるのだ。

 いや、火山のない国の人に言わせたら、日本列島のように危ない島にも人間は住んでいるのだ、ということになるだろう。
 阪神大震災の前年に神戸に来て、震災後なぜか離れられなくなってしまった俺には、島原に住む人たちの気持ちが少しだけわかる・・・ような気がする。

 長洲港から

 おしまい。(09.2.22記)
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