謎の古代遺跡<ちょっとした旅ホーム
熊山遺跡

山のてっぺんに立つ謎のピラミッド



2006年4月8日
(岡山県赤磐市)

 ひどい黄砂だ。空気が濁って、山の姿が見えない。

 JR山陽線・熊山駅を出て西側の線路下をくぐると、登山口の看板と貸し杖が置かれている。けっこう登る人がいるんだな。
 坂を少し上がると墓地があり、石畳の山道が始まる。わざわざ石を敷くほどだから、かつてはもっと多くの人が歩いたのだろう。

 ちょっと息をはずませると、すぐに喉が渇いて飲み物がほしくなる。黄砂のせいだ。

 石畳の道がしばらく続く

 奈良の頭塔に似た、ピラミッドみたいな謎の石積み遺構がこの熊山という山の頂上に立っているらしい。写真を見ると、たしかに似ている。

 熊山といっても熊が多いわけではない。「くま」とは古語の「隈」を意味する。「すみっこ」「はしっこ」のことだ。
 熊山は岡山市の東の外れ、吉井川をさらに東に越えたところにある。ここはまさに古代吉備国のはじっこ、「隈」の地に当たる。
 このあたりは最近まで熊山町に属していたが、合併で赤磐市になった。備前国の最高峰(標高508m)でもあり、古くから信仰の対象にされてきた霊山らしい。

 地図で場所を確かめて、フトこの熊山の位置が気になった。
 ちょっと図にしてみようかな。国旗ではない。緑色は中国山地、青色は瀬戸内海だ。

へたな図でスマヌ。
はじめて「ペイント」機能を使った。

 神戸から行く場合は、図の右側(かつての畿内)から左側(吉備)へと向かうかたちになる。黒い線がそのルートだ。
 列車が県境(図の赤線)を越えて岡山県に入ると、最初の駅が三石。ここまではJR山陽線と国道2号線(旧山陽道)はほぼ併走しているが、ここで二手に分かれ、鉄道は北側の山間ルート、国道は南側の海寄りルートをとる。
 この2つのルートは吉井川(図の青線)を越えて岡山市内へ入るとまた合流するが、その2手に分かれている部分の真ん中に熊山(緑の三角)がある。
 つまり熊山は、畿内と吉備を結ぶ2つのルートの両方に睨みを効かせる重要な位置にあるというわけだ。

 谷に沿って10分ほど登ると石畳は終わり、やがてポンと尾根に出る。黄砂のうえに蒸し暑い。早くも汗びっしょりだ。ユニクロのエアテックパンツ(1990円)の季節ももう終わりだな。
 さらに登ると、舗装道路に出る。なんだクルマでも登れるのか。
 右手に熊山とおぼしき、山頂部の平らなどっしりした山が見えている。ここまで駅から30〜40分くらい。

 舗装道路に出た。あれが熊山、まだだいぶある

 車道を横切って登ってゆくと展望台があり、さらに登ると赤松峠というところを越え、そこからは道がゆるやかに下ってゆく。なかなか山深いところだなと思っていると、ふいに左手に神秘的な青緑の池が現われた。
 もうかなり山頂に近いのに、こんな大きな池があるとはちょっと驚きだ。

 
(左)ひどい黄砂だが吉井川の蛇行がうっすら見える   (右)よく踏まれた歩きやすい道が続く

 
(左)赤松峠付近、まだあんなとこか   (右)いきなり現われた青緑の池

 あとで調べたらこれは板場池という名で、池底には旧石器時代の石器なども沈んでいるらしい。この山はずいぶん古くから人々の信仰を集めていたようだ。

 そろそろ山頂も近いと思われる頃、「二ツ井」という水場が現われた。清澄な水溜りが二つ並び、ひしゃくが置いてあるが、止まり水のためあまり飲む気になれず顔だけ洗う。
 傍らの立て札にはこう書かれてある。
 「超能力者 安東〇〇より授く」
 この山には超能力者も出没するらしい。さすが聖山。

 
(左)二ツ井   (右)澄んだ水をたたえる

 まもなく道はほぼ平坦になり、また車道に出たところで、熊山神社と熊山遺跡とに分岐する。とりあえず熊山遺跡に向かうと、大きな杉が2本立っている。樹齢約1000年、幹の周囲約4.5m、天然記念物らしい。

 2本の杉巨木がお出迎え

 その先、芝生広場のようなところに出たと思ったら、その奥にぽんと、ピラミッドが現われた。
 奥深い山の山頂に、何を思ったか石を積み上げられ、そして放棄された謎の遺構。木立に囲まれて黙ってたたずむ姿は、けっこう異様な光景だ。
 ここまで駅から1時間半ほどかかった。

 得体の知れない姿

 やや傾いた地面に石積みの土台が四角く築かれ、その上に3段が積み重なる。高さ約3.5mで、下段の一辺の長さは約7.7m、中段は約5.2m、上段は約3.5mとのこと。奈良の頭塔は土でできていたが、これは全体がすべて石積みであり、他に例がないという。
 真ん中の段には四角い穴が空いている。こういう窪みは「龕」(がん)と呼ばれ、頭塔にもあって石仏が納められていた。でもこの遺跡ではカラッポだ。
 ここにも本来石仏があったのだろうか。だとしたら頭塔と同じく仏教遺跡ということになるが・・・。

 かつてこの石積みの横には「帝釈山霊山寺」という寺があったらしい。その当時は仏教施設として使われただろう。だが問題は、これが初めから仏教施設として作られたのかどうかだ。
 今や霊山寺は名残の礎石などが残るのみ。しかし、石積み遺構はそんな事情を意にも介さないかのようにどっしりと腰を据えている。

 とりあえず1周してみた。

 
(左)1段あたり80cm〜1メートルくらいの高さがある   (右)龕の中には何もない

 
(左)裏側(南)から   (右)南東角から

 四角い龕は東西南北に空いている。
 裏側(南)にまわると、石積みの下に大きな岩盤があることがわかる。
 東側には、もう1段下がったところに石垣が続いているが、これは霊山寺の参道だったらしい。

 東側の石垣

 とりあえず近くのベンチに腰掛けておにぎりを食ったが、どうもなんとなく落ち着かない場所だな。へんなパワーが満ちているのかしらん。
 その間2〜3組の見学者が訪れたが、みな長居せずに去っていく。

 近くに立派な案内板が立っている。それによると、石積みのてっぺんに竪穴の石室(約2メートル)があり、一枚岩でふたをしてあるらしい。その中には陶製の筒型容器(高さ約1.6メートル、5分割できる特殊な構造)が収められていたという。容器の中には三彩の小壺と、文字の書かれた皮の巻物が入っていた「と伝えられている」。
 ん? 伝えられていた、って、ようするに実物はないわけか。
 んで、その容器と小壺から察するに、奈良時代前期の仏塔と考えられる、とある。
 奈良時代前期の仏塔だとしたら、ますます頭塔と似ているわけだが・・・。

 問題はそのあとだ。
 「熊山山塊には、現在大小32基の石積みの跡が確認されている」んだと。しかも、それらはこの山頂の石積みに「似ているが、築成の目的・年代・築成者などは異なるものと思われる」。

 なによ、それ。
 こんなのが他にもいっぱいあるって?

 目的も年代も異なるってことは、つまりある一定の期間、目的はわからないが、この山にこういった石積みがいくつも作り続けられた時期があったということだ。
 そして後年ここに霊山寺が建てられたもんだから、たまたまこの頂上にある石積みだけが、せっかくだから仏塔として使おうよ、というようなことになったってわけ?

 このあたり一帯は、昭和48〜49年に調査が行なわれている。
 それによって、かつて磐座(いわくら:天地の神霊が宿る岩)として崇めていた巨岩を砕き、その岩盤を取り入れた基段の上に、幾何学的構図に基づいて石積を築成したものであることがわかったという。そして他の石積みは、長い年月をかけて1基ずつ築かれていったと考えられるらしい。

 ではなぜ古代、ここにいくつもの石積みが築かれたのだろう。いったい何のために。
 ここで俺は、再びこの山の位置を思い出した。ここは古代吉備の東の国境地帯だ。

 3世紀以後、ここより東方には強敵・ヤマト政権が登場した。ヤマトが吉備の鉄を狙って覇権を強めてきたことは鬼ノ城で考察した。
 吉備津神社の伝承によると、ヤマトのイサセリヒコは吉備に攻め込む前に、播磨の加古川あたりを「吉備の道口」と定め、戦勝を祈願して呪術を行なった。その場所は今の日岡神社だろうと考えられている。

 つまり当時のヤマトの勢力範囲は加古川までだった。その先、西播磨から国境を越えて熊山までの間は吉備勢力の影響が強く、油断できないグレーゾーンだったのだろう。

 ここで俺はもう一つのことを思い出した。
 イサセリヒコが呪術を行なったという加古川東岸の日岡神社から、加古川を渡ってすぐのところに、謎の巨石神殿がある。石の宝殿だ。

 加古川から東は大和の勢力範囲。加古川と熊山の間は吉備勢力の強いグレーゾーン。その東端に石の宝殿があり、西端に熊山遺跡がある。
 いかん、またヘタクソな図を描きたくなってしまった。

黄色は吉備、青はヤマト。

左の青線は吉井川、右の青線は加古川。

赤線は播磨と備前の国境。
(現在の兵庫・岡山県境)


グレーゾーンの両端、
左の緑の三角が熊山で、右の三角が石の宝殿。

 まあ、石の宝殿と熊山に関連があるかどうかはわからない。っていうか、まあないだろな。ははは。
 だが、ともに古代信仰に基づいた謎の石の遺跡である点は共通する。そしてその両者の位置から考えて、こういう図を描きたくなった俺の気持ちもちょっとはわかってくれるだろう?

 ようするに俺の考えはこういうことだ。いつものように古代妄想中心でいくから鵜呑みにしないように。

 熊山は、旧石器時代から連綿と崇拝され続けてきた聖山だった。国の東端に位置し、最も高い場所であるこの山の山頂に吉備の人々は磐座を設け、東方から昇る朝日を遥拝していたのだろう。
 ところがそのうちにその方角から、ヤマトが圧力をかけてくるようになった。これはちょっとややこしい事態だ。そこで吉備の人々は太陽を遥拝しつつもヤマトを跳ね返すため、ここにいくつかの石積みの祭壇をこしらえ、複雑な祭祀を行なうようになった。ある祭壇では太陽を崇拝し、別の祭壇では「ヤマトあっち行け〜ヤマトあっち行け〜」と呪いをかける。
 ところがヤマトの圧力は年毎にきつくなる。もっと呪いを強めなければ。そして太陽だけでなくお月さんにも北斗七星にも頼んどかなきゃ・・・と、気がついたら32個もの祭壇ができあがったのであった。

 完璧だと思わないかねラングドン君?
 ついでに石の宝殿だが、これはヤマト勢力の西の境界を守る祭祀の場として、対吉備用に造られた可能性も指摘しておこう。

 おにぎりを食い終わり、周辺を見て回る。
 ピラミッド前の広場から200メートルほど離れた場所に、ポツーンと小さな猿田彦神社がある。ここも周囲が伐採されて広場になっており、そのさまが寂しげな印象を増幅している。
 2本の杉巨木を挟んで500mほど北には熊山神社。立派な鳥居と参道があるが、境内はやはりガラーンと殺風景。何の説明版もないので誰を祀った神社かわからない。あとで調べたら大国主のようだが、ようするに土着神、熊山の神であって、名前なんか後付けなのだろう。

 
(左)ポツンと意味ありげな猿田彦神社   (右)そっけない熊山神社

 さてと、そろそろ下山しよう。
 登山口の熊山駅とは逆に、南の海寄りルートの香登(かがと)に下りることにする。海寄りルートにはJR赤穂線が通っている。

 熊山神社から500mほど離れた駐車場から、南へ伸びる尾根を下る。
 しっかりした道の途中に、油瀧神社の上之宮、下之宮が順に現われる。変わった名の神社だなと思って覗いてみたが、ここも何も書かれていない。
 あとで調べたら上之宮の祭神は大山祗(おおやまづみ)、下之宮はコノハナサクヤヒメだった。

 
(左)油瀧神社の上社   (右)油瀧神社の下社、鳥居には「姫大神」とある

 そこを過ぎると道は細くなる。尾根をどんどん下っていくと、山道の真ん中にいきなり乗り捨てられた軽自動車が現われた。とてもクルマが通れるような道ではないんだが。
 フロントガラスに「〇〇警察、17年8月連絡済、処分検討中」というような紙が貼り付けてある。酔っ払っていたのか、よくもこんなところまでクルマで突っ込んだものだ。
 その先は岩が増え、徐々にヤセ尾根化してくる。やがて黄砂にかすむ香登の里が見えてきた。

 
(左)いったいどこのどいつが・・・   (右)岩がちな道

 
(左)香登が見えてきた   (右)熊山を振り返る。中央やや左あたりが石積み遺構のあるあたりか

 山の南側は、俺の近所の六甲山と雰囲気が酷似しており、登ってきた北側とはかなり印象が違う。海に近い場所は昔から繰り返し伐採されているため土が痩せ、乾燥しているが、そのぶん明るい。
 送電線の鉄塔手前で道は左の谷方面へ下りる。ここ、尾根を直進しないよう要注意。直進して余計な時間と体力を浪費した俺が言うのだから間違いない。

 山つつじに彩られた道を下る

 やがて車道と合流し、香登集落に下りる。窯と煉瓦煙突が目立つ備前焼の里だ。ここまで来ると、手前の山や尾根が邪魔して、熊山の姿は見えなくなる。麓からの見えにくさという点で、熊山はゲリラ戦の重要な戦略拠点でもあったかもしれん。

 熊山神社からJR赤穂線の香登駅まで45分ほどだったかな(ただしなかば小走り、モッチョム以降へんなくせがついた)。赤穂線は本数が少ないのでこれも要注意。乗り遅れてさらに余計な時間を費やした俺が言うのだから間違いない。

 赤線が歩いたルート(上から下へ)

 おしまい。

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