古代吉備王国の謎を探るシリーズ第3弾だ。
ふしぎな伝承の残る吉備津神社は、吉備王国の聖地・中山の麓にある。その西にはペッタンコの水田が広がり、2kmちょっと向こうに低い丘が見える。
古代にはこのあたりまで児島湾が入り込んでいて「吉備の穴海」と呼ばれていたらしいから、たぶんこの水田地帯がその「穴海」だったのだろう。
そこをレンタサイクルで渡り、「穴海」対岸の丘を目指す。
その丘の頂上には奇妙な遺跡があるという。

(左)吉備津神社の西の鳥居と中山 (右)かつての「穴海」を横切って・・・この日も黄砂がひどかった
2kmほど走ると、足守川に突き当たる。土手に上がると、正面に見えている丘がそれだ。
足守川の向こうに見える丘
対岸へ渡って丘へ登るが、どこに遺跡があるのかわからない。丘の西側はすっかり開発されて住宅地になっており、丘自体が史跡や聖地として守られている様子はほとんどない。
住宅地をウロウロしてたら、ある家でばあさんが庭に出ていた。遺跡の場所を聞くと、「その先に昔の参道がある」という。
言われたとおりに行くと、参道に出た。
だがこの参道、どこか変だな。それらしいオーラがない。草刈などの手入れはされているが、妙にサバサバした印象。とくに右側は森が失われていて、神社特有のうっそうとしたムードがない。
死んだような参道だ。

(左)参道入口の鳥居 (右)なんかへんな感じでしょ? 参道の階段に丸い石がいくつも埋まっている
でも参道はけっこう長い。
やがて丘の頂上が近づくと、視野は階段の終点と空だけになる。
その瞬間、いきなり胸が高鳴り始めた。ここは普通じゃないぞ! この向こうに何かある!
いけにえの祭壇を登るような緊張感に襲われた
興奮を押さえながら階段を登り切ると、目の前にこんな光景が現われた。
 
真ん中が少しずれてるけど連続写真
「何、ここ?」
そんな言葉しか湧いてこない。
中央に祠のような岩があり、周囲を異様な形をした石たちが取り巻いている。ストーンサークルだ。
円の直径は10〜15メートルくらいだろうか。
とにかくふしぎなのは、その石たちの形だ。手前から左回りで観察していこう。(大きさはすべて目測と記憶によるので不正確です)
まずはこの石。これをとりあえずA石とする。
A石、わけがわからない
長い部分の端から向かいの端まで1mと少々。石臼のようにも見えるが・・・長い部分を背もたれにして腰を下ろしてみたら、俺にピッタリだ。かなり腰が気持ちいいぞ。
その隣には、ニコイチのこんなB石がある。

(左)小さな石はややナナメにずれた位置 (右)側面はシャープ。高さは2m弱ほど
その横には、まあ普通の丸っこいC石。

(左)手前からC石、B石、A石の並び(AとBの間にあるのは伐り株) (右)C石の背後から全体を見たところ
その横はやや後方にずれて、割れた甲羅のようなD石。埋まっているようにも見えるが、もしかしたら後ろに倒れて割れたものかもしれない。
D石、掘り出してみたい
その横からは、薄べったい石がダイナミックに2つ並んでいる。
E石は入口のちょうど正面にあたる。F石はここでいちばん大きな石だ。

(左)左からE石、F石 (右)E石は高さ約2m、幅約1.5m、厚みは最大30cmくらい

(左)大きなF石は高さ約3m、幅約2m (右)E石以上に薄べったい。左側が円の中心
どうやって立てたのか
F石は大きいだけでなく、円の中心側が窪んで弧を描いていて、まるで仏像が背負う後光のようだ。
最後のG石はまるでソファのようだが、もしかしたら横に倒れたものかもしれない。
G石、左右の長さ2mほど
そして円の中央やや北寄りに、石を組んだ社がある。中には四角い石板が入っている。

(左)中央の石 (右)中にはこんなのがある
元はここに亀石というご神体の石があったが、今は倉庫に保管されているらしい。亀石は亀の形に似た大きな石で、表面全体に弧状の文様が線彫りされて、目玉のような模様がたくさんあるそうな。
それにしてもこのストーンサークル、あきらかに人為的に作られた岩石祭祀場だろうが、こんなに巨大な石が不思議な様相で立ち並んでいるところは他にない。温羅伝説では、吉備津彦が温羅と戦ったときここに陣を構え、矢を防ぐために築いた石の楯であるとされているが、そんなおとぎ話みたいなことで済まされる施設ではありえないだろう。
この遺跡は、岡山大学の考古学教室グループ(近藤義郎名誉教授)により、1976年から10年間にわたって6回の発掘調査が行われている。その結果、ここが弥生時代後期(3世紀)に造営された全国最大の巨大な墳丘墓であり、その頂上部分であることが判明した。
まさに邪馬台国の時代だ。
墳丘墓は双方中円墳(円墳の両側に方形の突出部がある)で、全長72m。直径約50mの円丘部は高さ4〜5m、そこに2つの突出部が北東と南西についていたらしい。この突出がのちにヤマトで前方後円墳の前方部に変化していったと考えられるわけだな。
だが片方の突出部は団地の造成工事で破壊され、もう片方の突出部には給水タンクがデーンと建てられてしまっていて、原型をとどめていない。あ〜あ、なんてことするんだよぅ・・・。
調査では、その他さまざまなことがわかった。
円丘の頂上中央には竪穴があって木郭・木棺が納められており、棺床には30kgを越す朱(水銀朱)が敷かれていて、ヒスイの勾玉、鉄剣、ガラス製小玉や管玉などが副葬されていた。でも遺体はなく、歯のかけらがあったのみ。
水銀朱はかつて不老長寿の薬と信じられ、ヒミコも好んだと伝えられる。もちろんそんなものを飲んだ人はかえって早死にしただろうが、それだけ大量の水銀朱を集めることができた人物は、当時の日本で最強クラスの権力者であったということになるだろう。
彼が葬られた木郭の上には小石が敷き詰められていたが、その厚さは1mもあったそうだ。その小石に混ざって、約1/8サイズのミニ亀石、特殊器台、高坏、人形土製品などの壊れたものが混じっていた。
これは祭祀を行なう時にそういったものをわざと壊して埋めた痕跡で、「破砕祭祀」と呼ばれる。奈良の纒向(まきむく)遺跡などの3世紀古墳でも確認されている。
また並べられた石は頂上部だけでなく、円丘部や突出部も2重の列石に囲まれていたという。いずれも、大きな石の間に少し小さい石が並べられているらしい。
それだけではない。
この丘の南端には別の環状列石があり、それと楯築との間には「王墓山古墳群」がある。俺は事前にそれを知らなかったので行ってないが、とにかくこの丘陵全体が、吉備の中でも特別な祭祀を司る聖地だったようなのだ。
東の中山と、西の楯築。この両聖地が「吉備の穴海」を挟んで対峙し、穴海の奥にある鬼ノ城やタタラ場など吉備の心臓部を守っていた、とは考えられないだろうか。
円丘の頂上から北の鬼ノ城方面を眺める
それにしても、楯築遺跡の頂上部のふしぎな巨大石たちは何を意味しているのだろう。葬送の祭祀を行なうためだけに、あんな形のものを苦労して立てるものだろうか。
俺は円の真ん中に立ったり、石に腰掛けたり、もたれたりしてみた。が、どうもこれらはもっと実用的に、頻繁に使われたような気がしてならない。
なんというか、どの石にも、使い込まれたような美しさが感じられるのだ。
「穴海」の対岸にある中山も聖地だが、山がここよりずっと高くて険しい。そういう場所は祭祀に向いていただろう。だが低い丘で海にも近い楯築は、みんなが集まりやすい便利さがある。
もしかしたら、ここは古代の会議場ではなかっただろうか。
それぞれの石は、吉備の各豪族らが立てた。定期的に、あるいは何かあったとき、各豪族の首長らは船に乗ってここに集まり、それぞれ自分の石の前に座った。石は首長らの背後で金屏風のように威厳を示した。ひょっとすると、そのころの石には極彩色の絵が描かれていたかもしれない。
もちろん、会議の前には円の中心で太陽祭祀が行なわれた。ストーンサークルのふしぎな力によって、太陽の無限の恵みと、地下に眠る偉大な吉備王の霊力とがスパークし、いい知恵が泉のごとく首長らに授けられたことだろう。
・・・いつもの古代妄想だ。根拠はない。
ともかくも、ここに埋葬されたのは、弥生末期の日本の最有力者クラスの墓であることは間違いないだろう。3世紀の後期にヤマトの纒向で箸墓古墳(全長280m)が造られ、古代の権力バトルはヤマトが一歩抜きん出ることになるが、その直前まで、吉備に日本最大の王権があったのだ。
このことから、邪馬台国吉備説が登場した。同時に、吉備の特殊器台が奈良の唐古・鍵遺跡や纒向遺跡などからたくさん出ていることからも、ヤマト王権は吉備王権が東遷したものだという説も浮上した。
そのへんの説の信憑性については、俺にはよくわからん。
でも確かなことは、3世紀の吉備に巨大王権が存在したということ。当時は吉備が日本の都だったと言ってもいいかもしれない。
そして鬼ノ城で見たように、ここには朝鮮半島の影響がきわめて濃厚だ。
少しずつ、「日本書紀」に抹殺された古代の日本の姿が見えてきた・・・ような気がする。
しかしそれにしても、住宅開発でこの貴重な遺跡が大きく損なわれているのは残念だ。
おしまい。
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