謎の古代遺跡ちょっとした旅ホーム
鬼ノ城
(きのじょう)


桃太郎と闘った古代朝鮮式の巨大山城



2006年1月16日、4月8日
(岡山県総社市、岡山市)



★鬼ノ城へ、正面から歩いて登る

 最近有名になってきた、謎の朝鮮式山城だ。

 大和朝廷による統一国家ができる前、今の岡山県から広島県東部にかけて、吉備という国(小国連合)があった。吉備団子の吉備である。古代日本では出雲や筑紫と並ぶ有力な文化圏で、朝鮮半島ともさかんに交流していたらしい。
 その真ん中にデンとある、その名も「鬼ノ城」。

 地元岡山では今ここを桃太郎伝説のメッカとして売り出し中だ。
 が、日本最大級の城でありながら、いつ、誰が、どういう目的で造ったのか、さっぱりわからない。
 怪しい城だ。
 ということは、予断と勘と妄想で大胆な謎解きをするこの俺様にしか、この城の謎は解けまい。さっそく青春18きっぷで岡山へ赴いた。

 と、その前に、この城には二つの話がからんでいる。

 ひとつは日本書紀の記述。
 天智天皇が即位する少し前の663年、日本は百済救援の名目で朝鮮半島に攻め込んだが、新羅&唐の連合軍にボコボコにされて逃げ帰った。そして大陸からの追撃に備えて西日本各地に防衛施設を築いた、と書かれてある。鬼ノ城はその一つではないか、というのが最も有力な説らしい。これでいくと7世紀の城ということになる。

 もう一つは、吉備津神社に伝わる温羅(うら)伝説。桃太郎の話のモチーフになったとされる話だ。
 それによると、垂仁天皇期に、百済の王子・温羅が飛来してこの地に居座った。温羅は吉備冠者とも呼ばれ、バケモンみたいにデカくて野蛮で、略奪暴行などして暴れまわってかなわん。地元民の救済願いに大和朝廷が応えて皇子イサセリヒコ(吉備津彦)を派遣し、温羅を打ち負かした。その温羅の根城だったのが鬼ノ城というもの。これだとおそらく3〜5世紀ということになりそうな。

 この二つの話を頭に入れて、以下の写真を順に見てたもれ。

将来ある高校生や女子大生に混じって、平日の朝からJR吉備線の通学ラッシュ列車でアホみたいにリュックしょって鬼ノ城を目指すクソオヤジ、それが俺。

これは足守駅で降りて撮った鬼ノ城方面の写真だ。

撮影場所付近は、古代吉備王国の中心と目される「吉備の中山」から北西へ約6〜7km離れたところ。(岡山市福崎)
現在は瀬戸内海から直線距離でざっと15〜20kmは内陸へ入っているが、当時はこの近くまで児島湾が大きく入り込んでいたとも言われる。

だが、そこから北へ、まだまだ遠い。

田んぼを抜けて、ひたすら歩く。
これは「血吸川」という川で、吉備津彦の射た矢に目を刺し貫かれた温羅が流した血で真っ赤に染まったことから、その名がついたという。


このあたりから鬼ノ城に至る一帯は「総社市阿曽」という地域。
血吸川に沿って歩き、だいぶ近づいてきた。山頂部に石垣などが見えている。

遠くから見ていたときは平野に面して屏風のように連なった山なみに見えたが、近づくにつれ、手前の丘陵に隔てられて奥まった位置にそびえていることがわかってくる。

血吸川を離れて小さな村を抜け、鬼ノ城の東側へ回り込んで、ここがやっと登り口。
ここまで足守駅から1時間ほどかかった。5km以上はあったと思われる。


 赤線が歩いたルート

 ここまで見て、みなさん、どう思う?

 まず日本書紀の防衛説だが、朝鮮半島から大和を目指して軍勢が攻めてくるのを防ごうというときに、こんなに湾の奥深く、しかも海からもかなり離れた場所に城を造るかね?
 大陸軍は当然、船で来るわけで。だとしたら1にも2にもまず関門海峡、さらに船の通路になるような、たとえば下津井みたいなところに巨大な砦を築くべきだろう。実際に対岸の四国では、瀬戸内海に飛び出した屋島に築城されている。
 大陸軍だって、大和を攻めるのにこんなところにまで入り込んでウロウロと無駄な戦をするかね? 鬼ノ城を落としても後ろには山しかないんだが。

 俺は歩きながら、「いや〜これは大陸からの防衛説はナイっしょ」と確信したのだった。

 鬼ノ城からは7世紀の土器などが出土していて、それが防衛説の根拠となっているらしい。
 しかしまあこれだけの城だから、7世紀の土器ばかりが出土したとて、もっと前からあったのを7世紀に再整備して使用したっちゅーだけかもしれん。
 問題は、最初に築かれたのはいつで、誰が、何のために造ったのか、ということだ。

 では登ってみましょう。
中腹までは新しく整備された山道が続く。
けっこう急傾斜だ。
上部では岩盤むき出しの中を登ってゆく。
15〜20分の登りで東門に達する。
大きな石でしっかりとした石畳が組まれている。

ここで標高約300m。
そこから南の眺め。
古代吉備国の主要部分が一望できる。

いくつかの丘によって3重4重に隔てられた遠くに瀬戸内海がある。かつてはこれらの丘を縫うように、とちゅうまで児島湾が入り込んでいた。

ちなみに、この写真とは反対の北側には累々と中国山地が連なっている。

 ここで再び、いかが。
 近寄りがたい地形、そして上の写真の眺め。まさにもう吉備国の奥座敷っちゅーか奥の院っちゅーか黒幕っちゅーか参謀本部っちゅーか最後の砦っちゅーか、肝心カナメの位置に今、立っているぞ! と俺は感じたね。

 んじゃ、城の構造を見てみましょう。

屏風折れの石垣。
当時はこの外壁が城の周囲約2.8kmを取り巻いていたと思われる。

城の面積は29万平方メートルで、国内最大級。
南門。
この向こうは2〜3mの段差になっており、簡単に入城できないようになっている。
石畳の道路跡。
復元中の西門。
復元中の西門を正面から。

こんなだったろうと想像されているわけね。


ちなみに、この西門の裏手(西側)には近くまで道路が着けられ、駐車場も作られていて、俺のように斜面を這い登らずともクルマで楽に来れる。

 こんな山のてっぺんなのに、どえらく立派です。しかもデカイ。
 戦国時代のものではない。吉備津神社の伝説によると、鉄も少なく人口も希薄な古代の話だ。俺のでは3〜4世紀。
 カッポウギみたいな白い貫頭衣を来て、髪の毛を耳の横でチクワみたいに束ねて、首から原始人みたいな勾玉ネックレスをぶら下げてる、あの時代だ。
 こんな城を造るのって、古墳を造るよりずっと大変だったに違いない。

 みなさん、吉備津神社の伝承にあるように、これをポッとやって来たヨソ者や山賊ふぜいが造れると思うかね? 
 こりゃあ吉備の国が総力を挙げて造った軍事施設だな・・・と感じないわけにはいかなんだね、俺は。

 朝鮮式の城だとすると当然朝鮮半島の人が技術指導をしたのだろうが、少なくとも地元の吉備王国もしくはその中の有力豪族が全面的に力こぶを入れまくって造ったに違いないだろう、これは。

 そもそも、吉備は朝鮮半島とのつながりが色濃い。
 古代、は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)地方の特産品で、日本は鉄を伽耶からの輸入に頼っていた。やがて伽耶からの渡来人がこの地方で砂鉄からの製鉄事業を始めたようで、鬼ノ城の東の尾根のゴルフ場(鬼ノ城ゴルフ倶楽部)開発工事では、大規模な古代のタタラ跡が発掘されたらしい。
 そして、岡山市北部からこの地に至る地域を支配していた豪族は「賀陽(かや)氏」だ。その名前からも渡来系と考えられる。

  鬼ノ城南門から、タタラ跡の出土したゴルフ場(左)を望む

 「血吸川」の名も、鉄サビで川が赤く染まっていたからだろうとの説もある。
 が、そういう川なら他にもある。ここで特に「血吸川」と名づけられたのには、やはり鉄サビだけでなく、実際に大量の血が流れたことが関連していると俺は考える。


吉備津神社の奇妙な神事

 鬼ノ城を歩いた3ヶ月後の2006年4月8日、俺は温羅伝説の伝わる吉備津神社へ行ってみた。
 温羅を退治したイサセリヒコは、軍門に下った温羅から吉備冠者の名を献上されて、以後、吉備津彦と名乗ったという。ここはその吉備津彦を主神として祀る神社だ。

 鬼ノ城から南東へ、直線距離にして12〜13km。イサセリヒコが陣を構えたという中山の北麓にある、古式蒼然たる大きな神社だ。
 このあたりは古代吉備王国の中心地だったと目されている。「津」とは港を意味するから、今は海から遠く離れているが、かつてはこのへんまで児島湾が入り込んでいたのだろう。吉備津とは吉備を代表する港を意味したのかもしれん。
 ちなみにこのすぐ北には「辛川」という地名がある。加羅(=伽耶)に「辛」という字を当てる例は他にもあるから、当時から彼の地の人々はキムチが好きだったのかもね。

 吉備津神社がいつ創建されたかにはいろいろ言い伝えがあり、よくわからない。まあやたらと古い神社であることは間違いない。吉備津彦の五代孫のカヤナルミが吉備津彦を祖神として祀ったのが起源との説があるが、ここでも「カヤ」が出てくる。

 国宝の本殿は「吉備津造り」というここだけの特殊な建築物だが、残念ながら修理中だった。でもこの神社の特徴は、なんといっても長い回廊だ。これは見応えがある。

 長い見事な回廊

 この回廊の途中、右に曲がると「御釜殿」という建物がある。
 ここで温羅にまつわる、「鳴釜神事」という奇妙な神事が今も行なわれている。祈願したことが叶えられるかどうかを「釜が鳴る」かどうかで占うのだという。
 「釜が鳴る」って、なにそれ?

 
御釜殿と看板

 御釜殿に入ると、「立入禁止」の柵の向こうにダブルのかまどがあり、右側で赤々と火が燃えている。そこに大きな釜が据えられ、せいろが重ねられて湯気を吐いている。
 この下に温羅の頭蓋骨が埋められているというわけだな。

 内部は写真撮影禁止だったので、仕方なく表の看板の写真を撮ったが、その看板にはこんないわれが書かれてある。(松本意訳)

 吉備津彦は、捕らえた温羅の首をはねて曝したが、不思議なことに温羅の首は大声をあげて唸り、その響きが止まなかった。犬に喰わせてドクロにしても唸り声は止まず、それを釜の下に埋めても唸り声は止まずに近郊の村々に鳴り響いた。
 吉備津彦が困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れてこう言った。
 「わが妻、阿曽媛にあなたの釜殿のめしを炊かせよ。もし世の中に事あれば竃の前に来れば、幸あれば裕に鳴り、禍あれば荒らかに鳴るだろう。あなたは死んだのちは霊神として現れなされ。わたしは一の使者となって四民に賞罰を加えよう」
 吉備津彦がその通りにすると唸り声も治まり、平和が訪れた。


 どうもおかしな話だ。
 吉備津彦は悪い鬼を退治した英雄だ。それがなぜ祟られ、悪夢にうなされ、悪者の言うことを聞かねばならんのか。
 しかも巨大な城を攻めて大バトルののち悪の一族を退治しながら、その総大将の妻を生かしたまま、重要な神職に就けている。

 俺が考えるに、夢枕に立った温羅の言葉は取り引きではないか。釜の飯とは食料を意味する。自分が死ぬかわりに、一族の安泰を保証せよということのようにも思える。
 第一、英雄イサセリヒコが悪者に名前を献上されて吉備津彦と名乗るようになった、というのも不自然な話だ。

 ちょうど奥から、白装束の女性が薪をくべに出てこられた。
 御釜殿でこの神事に仕えている巫女は阿曽女(あぞめ)と呼ばれるらしい。温羅が寵愛した阿曽媛になぞらえられているが、阿曽っちゅーたら、俺が鬼ノ城への長い道をトボトボ歩いた血吸川周辺一帯の地名だ。阿曽女は代々この阿曽の郷の娘から選ばれているらしい。
 阿曽は昔から砂鉄を使った鋳物の盛んな村で、御釜殿の大釜が壊れたり古くなったときに交換するのが阿曽の鋳物師の役目だったという。

 その阿曽女さんに話を聞いた。
 俺「この釜が鳴るんですか」
 阿「はい。お聞きになりたいことを唱えて、祝詞をあげて玄米を中に入れます。そして、わーんと釜が鳴ったら吉、鳴らなければ凶です」
 俺「鳴らなかったらショックですね」
 阿「その場合は、また一から計画などを練り直してはどうかというようなお知らせですね」
 俺「この釜の火はいつも燃やしてるんですか」
 阿「一日の終わりには消しますが、種火は別の場所で燃やし続けています。鉄に関係の深い火ということで、川崎製鉄が新しい炉を作ったときの火入れ式などでもこの火が使われます」

 俺はピンときた。
 鉄の利権だな。

 御釜殿の入口、座っているのが阿曽女さん

 というわけで、現時点で俺はこう解く。
 鬼ノ城を造り、ここを本拠にしたのは、当時の吉備を支配した渡来系の製鉄豪族、あるいは彼らと結んだ地元豪族だった。

 では、彼らは誰と戦うためにこんなたいそうなものを造ったのか。

 大和政権は、もとは吉備から畿内への移住者が中心になって作ったと言われている(纒向出土の土器など)。しかし3世紀後期〜4世紀ごろには逆に大和の勢力が吉備をその影響下におくようになり、大和文化のシンボルである前方後円墳が造られるようになった。
 大和朝廷の狙いはもちろん、この地方のだったろう。

 鬼ノ城のある総社市一帯は、吉備国で最大の「下道(しもつみち)」という豪族の支配地だったらしい。下道氏は雄略期の463年に大和政権に対して反乱を起こしたとの伝承がある(日本書紀)。
 それが鬼ノ城とイコールかどうかはわからん。が、朝鮮半島から渡来した製鉄集団を地元豪族が迎え入れ、協力してこの城を造って、じわじわ覇権を強めてくる大和政権への抵抗を試みた可能性はあるだろう。

 そのファイナル・バトルが桃太郎戦争だった----。鬼ノ城からの帰り道、JR吉備線服部駅への長い長い道のりを歩きながら、俺はそんな妄想をふくらませていた。

 しかし吉備の他の豪族には、犬・猿・雉として大和側につく者もいただろう。イサセリヒコは吉備の中山に陣を張ったといわれるが、そのあたりは賀陽氏のなわばりだ。もしかすると賀陽氏は大和側についたのかもしれない。そういや鬼ノ城は賀陽氏と下道氏の勢力範囲のちょうど境目にある。
 もしそうだとすると、温羅が伽耶人ではなく百済人とされたことにも説明がつく。朝鮮半島では、小国連合の伽耶は地域大国・百済に常に脅かされる立場にあった。賀陽氏は温羅が百済人であるとすることで、大和につくことが正当化される。
 いや、まあ温羅が本当に百済人だったのかもしれんけど。

 しかし鬼ノ城は堅固で、温羅軍は強かった。攻めあぐねたイサセリヒコは、吉備一族の安泰を保証するという取り引きを申し出た。温羅はそれに応じて城を降りたが、その瞬間捕らえられ、それを機に温羅軍は総崩れとなって、そこを流れる川に「血吸川」という名前がつくほどに大量の血が流された。ほとんど皆殺しに近い状態だったのかもしれない。
 鳴釜神事の伝承にあるように、のちにイサセリヒコ自身が悪夢にうなされ、温羅のお告げに従うほどだから、そういった騙し討ちのような卑怯な手が使われたに違いない。

温羅を祀る鯉喰神社の参道。

鯉に姿を変えて逃げる温羅を、
サギに姿を変えたイサセリヒコがここで捕食した
と言い伝えられている。


吉備津神社から西へ約3km
鬼ノ城から南東へ約9km。


境内の桜の木の下で女の子らが遊んでいた。

 勝ったイサセリヒコは吉備冠者に代わってこの地を統治するために吉備津彦を名乗り、彼を英雄とする歴史が新たに作られた。
 そして吉備は完全に大和の支配下に入り、そのあと出雲や北九州攻撃の尖兵として使われることになったのだ。

 以上が桃太郎伝説に関する、にわか古代史ファンこと俺様の解釈だ。
 あくまでも生半可な知識と勘と古代妄想に基づいている。良い子はくれぐれも鵜呑みにしないように。

 あ、それから余談だが、阿曽女さんに聞いたところによると、鳴釜神事をやっている人が大阪にもいるらしい。その人は小さな釜を持って歩き、悪いものがいる場所に近づくと釜が鳴るとのこと。
 大阪の鳴釜神事もやはり温羅を呼び出しておうかがいを立てるそうだ。

 鬼として征伐された温羅だが、鉄と火を司るタタラ神として今もなおその魂は生き続けている。
 それに地元岡山では、けっこう愛されているみたい。

 御釜殿の前にある椅子、どっちの表情も最高!

 おしまい。 (06.4.18)

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