著者から読者へ
(「ほんコミニケート」2001.10より)

医療裁判  長尾クニ子

 私はいわゆるプロの物書きではない。
 娘が交通事故に巻き込まれて救急病院に運ばれたが、そこで失血死する。医師が出血を見落としたのならまだ諦めもつくが、夜中に診察して「出血性ショック」と診断しながら放置して眠ったためだった。
 それで裁判となった。
 同時に救急体制のずさんさを訴えるために「救急医療を考える会」をつくり、以後19年間、被害者として医療を見つめることになった。
その中で『娘からの宿題』(草思社)と今回の『医療裁判』(さいろ社)という2冊の本を書かせてもらうことになった。
 出血している娘を放置したのだから裁判をすれば勝てると、単純に考えて私は提訴した。が、勝訴できたからよかったもの、途中で弁護士を替えなければどうなっていたかわからない。
 そもそも医療裁判の仕組みというのは、患者側が負けるようになっている。本当のことが知りたいから患者は提訴するのに、逆に、その知りたいことを患者側に立証せよ、というのだから。
 たとえば法廷で被害の事実がわかったとしても、決め手となる証拠がなければどうにもならない。ところが、その証拠はすべて被告である医師が握っている。と、いうふうに、医療裁判には法の下の平等など有り得ない。
 その不条理さは一般社会も十分に承知している。だから、医療裁判では患者側が勝訴するとそれだけでニュースにる。が、悲しいかなマスコミもそれ以上踏み込まず、大抵は勝訴イコール、ハッピー・エンドとなる。
 1冊目の『娘からの宿題』は必死で闘った裁判の記録と、勝訴はしたが本当の問題は何一つ解決しなかった情けなさをそのまま綴らせてもらった。
 ところがこの本がテレビドラマになるなどかなりの反響をいただいた。元気づけられた私は、医療裁判で一件ずつ過失を立証していけば医療は変わるだろうと信じ、大阪で「医療と裁判を考える会」を、そして被害者の全国的な組織である「医療過誤・原告の会」と、被害者運動の先頭に立ってきた。
 そして10年が過ぎた。
 残念ながら医療の世界には過失から学ぶという鉄則はまだ生かされていない。逆に「医師(医療)に過失はない」とする掟が厳然と息づいていることを再確認するしかなかった。
 娘の死が医療ミスではなく交通事故死で片付けられたように、いまだに医療ミスはいい加減に処理されている。注射一本で死亡する、あるいは植物状態になるという事件が起こっても、交通事故のように警察が調べてくれることは、まずない。不満なら、被害者自身が裁判をするしかないのだ。医療被害にあうと、泣き寝入りするか、裁判をするか、どちらかなのだ。
 しかも、これだけ医療ミスが報じられながら、医師を相手に裁判をすると、いまだ「なぜ、裁判をするの」と問われる。交通事故の被害者に「なぜ」と問うだろうか。
 被害を受けた途端に病院はもとより、社会からも切り捨てられてしまう医療被害者が、背負いきれない負担にあえぎながら裁判に取り組む姿をみていると、医療裁判を闘うという私の取り組みは間違っていたのだろうかとさえ思う。
 本書は救急医療のずさんさで植物状態になったある女子中学生の家族が、一審で敗訴したのち二審で逆転完全勝訴するまでの過程を追いながら、日本の医療裁判の理不尽さを具体的に明らかにするものである。と同時に、医療被害者としての私の19年間の活動を検証するものでもある。

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