ちょっとした旅ホーム
美保関

mihonoseki
(島根県松江市)


日本海に突き出す
神代からの古湊



2009.5.17
(旅行から約1年半が経過してから書いています。記憶にあやふやな部分が多くてスマヌ・・・)


(地図右上のほうの赤い印が美保関)

 境水道を抜けて日本海に出ると、とたんに波が高くなる。
 人家のないさみしい海岸沿いの道がひとしきり続いたのちに、ぽんと小さな湾内に出た。

 スプーンでえぐったような湾は周囲に山が迫り、海面を深い緑色に染めている。その水際ぎりぎりの線に沿って、建物が薄く張り付いている。
 小雨のぱらつく美保関は、肌寒かった。

 


美保神社

 平成の合併で松江市の一部となった美保関だが、松江からはバスで40分もかかる、半島先端のドンツキ集落だ。

 その湾奥の特等席に当たる位置に、この小湊の名を高めている有名物件、美保神社がある。とりあえずそこへご挨拶しときましょ。

 糺大明神の祠

 美保神社の手前に、「糺大明神」という小さな祠があった。キツネがいるから稲荷なのだろうか。でも一般的な稲荷っぽくないし、このキツネも妙。どことなくあやしいケハイが漂っている。

 小さな町だから、探すまもなく目的地に着いてしまう。
 美保神社は荘厳な森を背負い、海を向いて鎮座していた。

 
(左)正面鳥居、左右に数軒の土産物屋あり   (右)鳥居の内側、短い参道

 
(左)注連縄のある門   (右)神楽殿

 いつごろできたのかわからん、とにかく古い神社だ。オオクニヌシの妻ミホツヒメと、息子のコトシロヌシを主神として祀っているが、元々はオオクニヌシの娘ミホススミだけを祀っていたらしい。

 天神系(渡来系)のミホツヒメは、天上から稲作をもたらしたということで農業の神とされる。
 また、出雲国を天神族に譲って海に沈んだコトシロヌシはエビスと同一視されたことから、全国の事代主系エビス神社3385社の総本山ともなっている。
 ちなみにエビス信仰には蛭子系もあるが、それは西宮神社が総本山。

 雨のせいか人気もなく、神社をすっぽりと包み込むような巨木たちが存在感をもって迫ってくる。背後の原生林のオーラがもうただもんやない。
 うしろの拝殿と一体化したような神楽殿の豪華さが印象的だ。人口も少なく土地も狭いこの港で、これだけの広さをもって、いったいどのような神楽が舞われるのだろう。

 立派な神楽殿

 その奥の拝殿・本殿もちょっと変わってる。大社造りを2棟連ねていて、美保造りと呼ばれる形式らしい。

 
(左)本殿の屋根   (右)神楽殿から屋根がずっとつながっている

 人間の見当たらない拝殿でパチパチ写真を撮っていたら、どうも誰かに見られているような気がしてならない。
 その瞬間、こいつと目が合った。

 じいっと見るなよ!

 なんちゅーかこの神社には、外来者に対してここのウリをアピールしようというような魂胆がまるで感じられないな。ただ古く、潔く、堂々と鎮座するのみだ。その気高い態度そのものに迫力を感じる。

 境内をよく見ると、ほかにもビジュアル的に味わい深い住人たちがさりげなくこっちを見てるやないの。

 
(左)この犬も奇妙   (右)ニャーン!

 
(左)美保関の湊と美保神社の絵図   (右)入り口の門からは正面に海が見える

 境内に1本の朽ちた材木が置いてある。そこの看板には、こんな話が書かれていた(松本意訳)。

 明治29年、京都府丹後地方・岩滝の宝栄丸という船が水晶と但馬牛を積んでロシアのウラジオストクへ向かう途中、能登沖で暴風雨に遭って梶を折り、漂流することになった。乗員一同覚悟を決めて髪を切り、美保大神をひたすら拝んでいたところ、波間に大鯛が現れ、その鯛の導きによって夜明けに美保の岬に漂着した。
 「乗組員一同歓喜に打ち震えつつ思わず神恩の宏大無辺なるを絶叫し」、その後船が湾口に達するや鯛はどこかへ消えていった。

 「梶なき船鯛に導かれ、しかも祈願を籠めたる大神の港へ入りたるは、不思議中の不思議にして、全く厚き御神徳の外なし」

 命拾いをした乗組員らは、その折れた梶をここへ奉納した。
 それがこれ。

 宝栄丸の折れ梶

 日本海沿岸は対馬海流が出雲から能登方面へと流れている。その大きな流れに逆らって、能登から美保へと流れ着いたというのはたしかに不思議だ。
 しかし海流の脇には逆方向への対流が生じるともいう。

 鯛が導いたかどうかはともかく、もしかしたら美保関はそうした漂流者が少ない確率ながらも漂着する、微妙な位置に突き出た港なのかもしれない。
 そのことによって、ここが古代から海の信仰の総本山となってきたような気もするな。

 あくまでもそんな気がするだけね。俺の勘をウノミにしないでちょうだいね。


美保のまちなみ

 美保神社の脇から、青石畳通りと呼ばれる風情ある路地が延びている。ちょっとしゃれた店や旅館などが並んでいる。
 かつて美保関は北前船の風待ち港として栄え、また田植え後の泥落としの参拝も盛んで、それらを接待する芸者もいれば劇場もあったという。
 この通りはその栄華の名残りの道だ。

 でも今は季節外れなのか雨のせいなのか、歩く人もなく店も閉まっているところが多い。
 傘をさしてそこをぶらぶら抜けていくと、仏国寺というお寺があった。

 
(左)青石畳通り   (右)仏国寺

 うっそうとした森に囲まれた辺鄙な寺だが、ここには平安初期の一木彫りの重文仏像が5体もあって、ちょっとした見ものだ。
 ひんやりとした雨の中、寺の中は木々の生死のニオイが濃く充満する。そこで仏像群としばしの対峙。

 寺を出て、湾の東側に延びる路地を歩いた。海岸道路と平行して微妙に屈曲しながらも、山と海に挟まれたわずかな平地に立ち並ぶ家々の生活道路はこれ1筋しかない。
 狭い路地を圧するように立ち並ぶ古い木造二階建て。そのはざまを吹き抜けてゆく冷たい雨風。この路地にはなんともいえん歴史のオーラが満ちとるね。

 
(左)路面はブロック舗装がなされている   (右)こんな感じで数百メートル

 井戸があった

 その背後、湾の東の山はうっそうとした照葉樹林に覆われている。山道をたどって尾根に上がると、美保神社の末社らしき小さな祠がいくつも現れる。
 そのいくつかを回って下りてくると、森の奥まったところになにやら心ひかれる小さな社があった(右下写真)。

 
(左)尾根上の末社   (右)森の中の幸魂神社

 鳥居をくぐって階段を上がると、祠の隣に苔むした石碑があり、横に小さな案内板が立っている。
 それによると、この社は幸魂神社といい、男女の下の病に効くとされて、かつては芸者たちによく信仰されたらしい。
 また何の神を祀ったものかは長らくわからなかったが、平成15年に見つかった江戸時代後期の棟札には「三穂津姫霊廟」と書かれていた。つまりミホツヒメの墓ということか。

 
(左)ふたたび海岸に出た。正面湾奥の谷間に美保神社がある   (右)海沿いの古い旅館

 美保神社前に戻り、鳥居前の店でイカ焼きを買って食った。
 雨はやみそうにない。

 出雲神話の重要人物を祀る美保神社だが、北前船の往来が盛んになるほど、ミホツヒメやミホススミ以上にむしろ海のエビス信仰が必要とされたことだろう。
 その農業・航海のダブル信仰が美保造りというダブル屋根の本殿を生み出し、ダブルの繁栄をもたらしたと思われる。

 でも今となっては、山陰のはじっこに位置する辺鄙な小漁村として過疎化が進むのみだ。
 都落ちした貴種のごとき、さびしげな古湊であった。

 美保神社前の土産物屋の干しだこ

 おしまい。(2010.12.20記)
この頁の頭<中国地方<ちょっとした旅ホーム