謎の古代遺跡<ちょっとした旅ホーム
石の宝殿
(生石神社)


女子高生も驚愕! 巨大石造物



2005年5月9日
(兵庫県高砂市)

 うかつだった。油断していた。

 というのも、わが故郷・大阪府寝屋川市にも「石の宝殿」という遺跡があり、何度か行ったことがある。石室がむき出しになった、ちょっと珍しいタイプの古墳だ。
 それと同名の遺跡が高砂にもあると知ったのはかなり前だ。でも聞きなれた名前だけに、なんとなく「ああ、あれね」という感じで、さほど興味をひかれなかった。

 ところが。

 じつは高砂の「石の宝殿」は、寝屋川の「石の宝殿」なんかとはケタ違いのシロモノだった。
 バカでかさ、デザインの奇抜さ、加工のみごとさは他に類を見ない。しかも、いつ、誰が、何のためにこんなものを造ったのかサッパリわからない。江戸時代は「日本三奇」に数えられたらしく、謎の深さにおいても第一級の古代遺跡だ。

 これを見なければ兵庫県に住んでいる意味がない、とさえ言い切ってもいいだろう。

 JRには加古川の少し先に「宝殿」という駅があり、そこからが近い(といっても1.5kmほど離れている)。でも俺は、安いきっぷのある山陽電車の伊保駅から歩いた。2km以上はあったろう。
 伊保駅から北へ歩き、新幹線の高架をくぐると、正面に岩のむき出しになった丘が見えてくる。さらに「竜山」という交差点で国道250号(明姫幹線)を渡ると、その岩盤が圧倒するように迫ってくる。麓には石切り場がある。

 このあたりは「竜山石」の産地であり、ここから切り出された石で作られた石棺などは奈良や琵琶湖北岸などの古墳からも見つかっている。太古の昔から現在に至るまで連綿と石が切り出され続けている、石の総本家だ。

 
(左)伊保駅から北へ   (右)竜山石の石切り場

 石切り場を左に眺めながら正面の丘を登る。10分ほどで峠に達すると、生石(おうしこ)神社が現われる。
 ここに「石の宝殿」が祀られている。

 
(左)峠には生石神社の駐車場があり、その向こうは岩盤がむき出しの丘が続く   (右)生石神社の割拝殿

 生石を「おうしこ」と読むっちゅーのも、なにやら謎めいている。「しこ」とは「鬼」のことだが、古代は「神=鬼」でもあったらしい。
 祭神はオオアナムチ(オオナムチ)とスクナヒコナ。一般にはあまり馴染みのない名前かもしれないが、どちらも古代史の謎の鍵を握る重要人物だ。オオナムチは因幡の白兎を助けた出雲神で、スクナヒコナは一寸法師のモデルとも言われる神。彼らを韓神(からかみ)として祀る神社もあり、朝鮮半島からの渡来人(製鉄集団)ではないかとも言われる。

 西日本各地にはオオナムチとスクナヒコナの伝承が数多く残っていて、「播磨国風土記」には、二人が「荷物を背負って遠くへ行くのと、ウンチを我慢して遠くへ行くのと、どっちが辛いかを争った」なんていう話もあるらしい。俺はウンチを我慢するほうが辛いと思うが、もちろんこれは勢力争いの呪術的なたとえだろう。
 当時の日本では百済vs新羅の代理戦争が行われていたとの説もあるけど、もしかしたらそれとなんらかの関係が・・・あかん、今の俺はこの手のニワカ知識をひけらかしはじめたら止まらんようになる。もうやめとこ。

 さて、生石神社の拝殿はトンネル状になっており、向こうが素通しになっている。こういうのを割拝殿というらしい。中に入ると、もう一つ割拝殿がある。珍しい造りだ。
 おや? その奥は何かでふさがっているぞ。

 
(左)中央がスッポリ抜けた2つ目の割拝殿の向こうは・・・   (右)何かでふさがっている・・・

 トンネルを抜けると、そこは石の宝殿だった。
 高さ5.7メートル、横幅6.4メートル、奥行き7.2メートル、推定重量500トン。圧倒的な迫力。この神社のご神体だ。
 でかすぎて写真に入らない。

 出ました・・・

 
(左)左側サイド   (右)右側サイド  どちらにも正確な人工的掘り込みがある

 
(左)底は掘り込まれ、石が空中浮遊しているように見える   (右)この水は旱魃にも決して涸れず、潮の干満を表すそうな

 石の周囲は3面がガケに囲まれ、下は池になっている。どうやら一枚岩の山をくり貫いて造ったらしい。ひんやりとした霊気が漂っている。
 池の横に細い石の通路があり、裏にまわれるようになっているので、おそるおそる行ってみる。

 すると・・・!

 なにこれ!

 背面の中央部が、真後ろに向けてオーバーハングに突出している。ちょうどテレビのブラウン管の裏のようだ。 しかも削られた面はあくまでシャープで正確。
 正確だが、何なのかはさっぱりわからない。

 この石は、江戸時代には 「日本三奇」の一つに数えられていたらしい。シーボルトの描いたスケッチなんかもある。他の2つは「宮崎県・高千穂山頂の天の逆鉾」「宮城県・塩釜神社の塩釜」だそうな。

 ちなみに、この日ここにいたのは、俺と、女子高生2人だけだった。同じタイミングで来て、同じように裏側の突出部分を見物していたので、石のスケールを明確化するために写真に入っていただいたのが冒頭の写真。
 神聖な場所でも変態おやじ丸出しだ。

 
(左)裏側から拝殿のほうを見たところ   (右)同、逆サイド

 全体を見ると、意外にも正面の加工がいちばん粗いことがわかる。

 拝殿でゲットした生石神社パンフによると、オオナムチとスクナヒコナがこの石の宮殿を一晩で造ろうとしたところ、賊神の邪魔が入ったため朝になってしまい、正面に起こすことができず未完成に終わったということだ。つまり正面は底面で、裏の突出が塔のように立つはずだったということか。
 でもそれなら最初から上に突出部を掘ればよかったように思うのだが。

 同パンフには、別の由来も書かれている。
 西暦713年の「播磨国風土記」には、「弓削大連(物部守屋)の造った石であると言い伝えられる」とあるらしい。
 物部守屋といえば、仏教を導入しようとした蘇我馬子と争って破れた6世紀の人物。馬子は物部氏を攻め落として飛鳥寺を造ったが、もしかしたら物部氏は馬子に対抗して、世間をあっと言わせるためにこの巨大な神殿を造っていたのかも・・・などとも想像させられる。

 拝殿の横に、裏山へと続く道があるので行ってみる。ご神体の石を上から眺めることができる。

 
(左)山全体が一枚岩で、山頂への階段も石を直接きざんである  (右)ご神体を横から見る

 
(左)上部には木が生えている  (右)掘り抜かれたようすがよくわかる

 裏山の頂上は、すばらしい展望が広がる。休日におべんとうを持って来ても楽しいところだ。

 
(左)頂上には、大正天皇が来たとの碑がある  (右)山頂から高砂市街と播磨灘を望む

 
(左)東南の方角。東西は竜山石の石切り場になっている  (右)北に数百メートルほど、細長い頂上部が連なる

 そして例の女子高生

 最後に、おっさん読者は気になって仕方がないであろう、この謎の遺跡を見に来た女子高生についてお教えしましょう。
 彼女らは地元の高校2年生で、放課後に自転車をこいでやってきた。見た目はごくフツーのイマドキ系だが、「先週は鹿島神社(高砂市内)に行ってきたんです」という。最近寺社めぐりにハマっているんだそうな。わからんもんだ。
 来年は修学旅行でマレーシアに行くとのこと。数年前に行った俺が「ヒンズー寺院がおもしろかったよ」と言うと、目を輝かせていた。

 念のため言っておくが、俺が先に登って景色を眺めているところへ、あとから彼女らが登ってきた。もし彼女らが先に登っていたら、俺はきっと登れなかっただろう。
 おっさんになると、いろいろ気をつけなければならないことがあって厄介だ。

 というわけで石の宝殿は、古代妄想をあれこれと刺激される、ロマンに溢れた見応えのある遺跡だ。姫路城見物のついでにでも寄られることをオススメしとこう。

 おしまい。
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