県庁所在地シリーズちょっとした旅ホーム
チープ&ディープな男の旅路・県庁所在地シリーズ

長崎

---坂と港と男と女---

(2008.4.9〜10)


 県庁所在地はオモロないからこのシリーズは挫折した・・・と前々から言っているものの、じつは松江に続いて長崎も楽しい町だった。季節もよかったし。
 だから写真とともに記録しておくことにする。

 (と考えてから早くも8ヵ月以上が経過しております。いつものように記憶があやふやな点はご容赦ね)

↓(1)竜馬の歩いた道・・・眼鏡橋から風頭山(このページ)
↓(2)迷い込んだ国宝の寺・・・崇福寺(このページ)
→(3)失われた華僑の町・・・唐人屋敷(別ページ)
→(4)長崎港から丸山遊郭跡へ(別ページ)
→(5)夜景を見に、再び風頭山に登る(別ページ)

(1)竜馬の歩いた道・・・眼鏡橋から風頭山

 列車の窓の外に迫っている山の中腹に、だんだんと建物がへばりつきまじめた。かなりの急斜面なのに、無理してびっしりとへばりついている。
 俺が住んでいる神戸もたいがい斜面に建物がへばりついているが、ここのへばりつきようはちょっと笑いたくなるくらい。どう見ても不自然だ。

 その奇妙な景色を見せつけながら、午前11:40、列車は長崎駅へとすべりこんで行った。
 長崎駅は終着駅だ。JRの線路はここでぷっつり途切れている。

 長崎に来るのは小学校2年生以来だ。あのときは家族4人でオランダ坂やグラバー園などの観光地をまわった記憶がある。

 長崎湾は、東シナ海から九州島に向けて鉛筆かなにか尖ったものをシュッと突き刺したように切れ込んだ長細い湾だ。
 その奥に長崎市街がある。湾のすぐ際まで山が迫っていて、こんなところに大きな町があること自体に無理があると思える狭苦しい地形。したがって、長崎は坂ばっかりだ。

 狭い長崎湾の一番奥のどんづまった位置に長崎駅がある。長崎の中心市街地はこの駅を基点に、湾の出口方向(南)へ続いている。
 ちなみに原爆を落とされた浦上地区は駅から海とは逆方向の北側内陸部にあたる。だから長崎の原爆は広島とは違って、市街地の中心に落とされたわけではない。

 駅を出ると、駅前の大通りに大きな陸橋がかかっている。まずはそれに上ってみた。



 足の下の大通りの真ん中を切り裂いて、路面電車の線路が束になって伸びている。中心部方面は大きく2系統に分かれている。車の群れに混じって、電車が次から次へと、線路をごりごりと削る音を立てながら堂々とのし進んでいる。
 しばらくそのようすを眺めてから、左右の線路に挟まれたブロックへ足を向けた。ゆるい坂を越えて官庁街を抜けると、「眼鏡橋」の表示があった。
 そうそう、長崎といえばとりあえずは眼鏡橋だな。

 で歩いて行くと、駅から15分もかからずに眼鏡橋に出た。

  きれいにメガネ状態

 言うまでもなく長崎は江戸期にオランダと中国に開かれた唯一の港だった。今はどちらかというとグラバー園や大浦天主堂などオランダ系の遺物が有名だが、眼鏡橋は華僑が作ったものらしい。
 さすがに観光客があちこちにいて写真を撮っている。俺も何枚も撮った。

 ところで眼鏡橋がかかっている中島川には、この橋のほかにも短い間隔でびっくりするほどたくさんの橋がかかっている。橋だらけだ。しかもどれもが石造りでなかなか味わい深い。
 中島川に沿ってしばらく橋を見て歩いた。

 
(左)こんな感じでたくさんの石橋がかかっている   (右)中島川には鯉がいる

 途中で右手の山側を見ると、路地の奥にきれいな桜が咲いている。それに誘われて坂を登ってゆくと、お寺の並んだ通りに出た。

 
(左)桜に誘われて   (右)赤い山門の興福寺、江戸期に華僑が建てた黄檗宗の禅寺らしい

 
(左)興福寺をちょっと覗く。拝観料が必要だったので入らなかった   (右)寺町のまちなみ

 石垣に沿って、いくつかの寺の前を歩いていくと、「竜馬の道」という表示が細い坂道についていた。寺の裏の墓場に挟まれた細くて急な坂道だ。
 ということは、竜馬が作った日本最初の会社といわれる亀山社中がこの上にあるのかな?

 
(左)竜馬の道。コンクリ固めで情緒はあまりなし   (右)ひとしきり登ったところにあった「竜馬のぶーつ」

 ひとしきり登ったところに、「亀山社中跡」があった。建物はあるようだが、公開はしていないらしい。
 そのすぐそばに、ブロンズで作られた「竜馬のぶーつ」があった。ここは眺めがよく、若いカップルが記念写真を撮っていた。
 竜馬はブーツを履いた最初の日本人なのだそうだ。
 でもその前にジョン万次郎がアメリカで履いていた可能性もあるのではないか。それを確かめた人がいるわけではないだろう。

 天気がいいので汗をかいてきた。
 ぶーつからも町は見えたが、長崎港まではあまり見えなかったので、もっと長崎の町全体を見渡せる場所まで登ろう。地図にはこの近くに風頭山(かざがしらやま)というのがあるみたいなので、そっちへ向かった。

 少し登るとバス停に出た。そこから表示に従って風頭公園へ歩いていくと、突如として桜満開のグランドへ出た。そこかしこにお花見を楽しむ人たちがいる。
 さらに公園内を登ってゆくと道はいつしか尾根に出て、そのひときわ小高い場所に展望台があった。
 そこからは長崎の町が一望の下だった。

 
(左)桜が満開じゃ   (右)風頭公園、みごとじゃみごとじゃ


展望台からの眺め。切れ込んだ長崎湾と、向かいは稲佐山

 たしかに開国か攘夷かで揺れる幕末の頃に、港に出入りする大きな異国船をここから眺めていたとしたら、さまざまな思いで頭がはちきれそうになったであろうことはなんとなく理解できる。
 歴史に「もしも」はタブーだが、どっちに転ぶかで一国の運命がコロッと左右される、その「もしも」の瞬間がまさに「今」なのだということをたぶん竜馬は全身の毛穴から痛いほどに感じ取って、興奮のあまりオシッコちびりそうな毎日を過ごしていたに違いない。

 
(左)子どもが藤娘を踊っていた   (右)じっと動かない花見のばあさん

 展望台から小さな鞍部を挟んだとなりのピークにも展望台があり、そこには竜馬の像があった。

 
(左)春ぜよ   (右)竜馬像からもさらに尾根筋に桜の園が続く

 稜線続きに下って小さな神社や児童公園を過ぎると、舗装路から外れて岩盤を登ってゆく急な階段の道がある。そこが風頭山の山頂らしかった。
 山頂部は細長くのびた芝生の広場になっていた。

 
(左)風頭山の山頂への階段    (右)中国人らしきカップルが港を見ながら弁当を食っていた


歩いてきた風頭公園は桜に埋もれていた

 山頂のはらっぱ

 風頭山は長崎市街地側がストンと急傾斜になっていて、南北に長い稜線がすべて展望台のような状態だ。

 桜満開、日本晴れ。そよ風が頬を撫でてゆく。
 芝生に腰を下ろして、リュックからおにぎりを出して食べ、お茶を飲んだ。
 幸せである。

 激動の幕末から幾度もの大戦争を経て現在に至った日本が、今なおさまざまな問題を抱えていることは間違いない。もしかしたら後世から見て、今この瞬間がまさに「もしも」の渦中であったということになる可能性も否定できないだろう。

 だけど、この晴天のもとで、さしあたって今、俺にたりないものは何もない。
 おだやかに満たされている。

 眺めと風をゆっくり味わったのち、来たのと反対側へと山頂部を下りた。
 バス道を数分歩いたあたりで、長崎港へ向けて急傾斜で下りて行く狭い階段を見つけた。

 ここから下った

 俺はその階段をまっすぐに下りていった。

(2)迷い込んだ国宝の寺・・・崇福寺

 急な階段を下りてゆくと、道はまもなく右のほうへカーブしてゆく。でも、左手になおまっすぐ下りて行けそうな細い階段も見つけたので、そっちを選んでさらに下りていった。
 すると、いつしか完全に墓地の中に入ってしまった。

 大きな木に守られた墓地

 墓石と木立を抜けてどんどん下りてゆくと、大きなお寺の裏手に出た。ここはどこの寺だろう。

 
(左)甍の波が重なり合う    (右)切妻が赤く塗られている。また中国の寺だな

 裏口からこっそり侵入するかたちで寺の敷地に入った。ていうか他にどうしようもない。
 入ってみるとじつに立派な寺で、外国人の観光客グループもいる。

 
(左)ばりばり中華    (右)これは韓国の寺にもあったけど、地味な魚だな・・・ワキンか?

 道路地図から引きちぎって持ってきたショボイ地図を見ると、どうやら崇福寺(そうふくじ)という寺らしい。
 あとで帰ってから調べたら、崇福寺は江戸期に華僑が作った寺で、九州に5つしかない国宝建築物のうち2つがこの寺にあるらしい。

 ちなみにあとの3つは、長崎の大浦天主堂、大分県の富貴寺と宇佐神宮だ。
 (この時点ではそうだった。だがこの旅行から帰った2ヵ月後の2008年6月、熊本県人吉市の青井阿蘇神社の5つの建築物が一気に国宝指定された。九州では55年ぶりの指定なんだと)

 お堂がたくさんあるが、数ヶ月前に台湾でたくさん見たのと同じようなワケわからん偶像がいろいろと・・・おや? 天上聖母と書いてあるぞ。
 ということは媽祖廟(まそびょう、マーズービャオ)だ(くわしくはこちら)。いやー、なぜか親近感が湧くなあ。

 
(左)あれはたしかに・・・    (右)航海の安全な進路をさぐる媽祖のボディガード

 
(左)媽祖様    (右)豪華な天井

 次に現れた立派なお堂には、さらにいろいろな偶像が立ち並んでいる。

 
(左)あとで調べたら、左が国宝の大雄宝殿、長崎最古の建築物だと    (右)これはたしか韋駄天

 
(左)なんじゃこれ    (右)こいつもなんじゃ?

 
(左)へんな龍    (右)出ました、三国志でおなじみの関羽! こんどは関帝廟かい

 そして次のお堂でやっと寺らしくなった。

 
(左)金色のブッダ    (右)寝てるのか?

 羅漢さんいろいろ

 江戸時代、幕府はキリスト教を禁止して全国民の宗門改帳を作ったが、長崎に居住する中国人らに対しても三つの寺を作らせてそこに所属させた。この寺はその一つらしい。
 しかし中国人は日本人のように仏教徒ばかりではない。むしろ彼らの多くは儒教、道教、媽祖信仰や関羽信仰その他モロモロの雑多な土着宗教を信仰している。とくに長崎の中国人のほとんどは媽祖信仰のメッカ、福建から来ていたわけで。
 もちろん、中国ではこれらの宗教は別々の寺院や廟で祀られている。それを江戸幕府が無理矢理に仏教寺院にまとめさせたということなのかもしれない。

 じっくり見学を楽しんで出口近くに来ると、拝観きっぷをもぎる場所があった。裏口から迷い込んでしまった俺はもちろん知らぬ顔で通り過ぎたけど、よい子は決してマネをしないように。

 
(左)あとで調べたらこれが二つ目の国宝、第一峰門    (右)出入り口の石門にたどり着いた

 
(左)門の外にあった、へんな狛犬    (右)門の左右扉についているケダモノ

 門を出て振り返る

 台湾へ行ったばかりの俺にはかなり楽しめる寺だった。
 ありがとう、そしてごめんよ崇福寺。今度来たら2回分の拝観料を払うからね〜。
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